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虚構と現実の狭間に 〜メディアは人を殺すのか?〜
byきゃみさん
◎トレンチコートマフィア
99年、今年も世界中で不可解な事件が起こったわけだが、中でも陰惨を極めた事件と言えばアドルフおじさんの誕生日(もちろん4月20日)に実行された米国コロラド州「コロンバイン高校」で起きた銃乱射事件であろう。黒いトレンチコートに身を包み、西部警察もお手上げの武装で登校してきた“えせ”ナチマニアの学生が、「運動バカは立て!」と叫びつつ5時間の殺戮タイムを楽しんだ後、自刃した、あの事件である。(ちなみにアドルフおじさんは運動バカが大好きです。)
最終的に13人も殺害してしまった彼らだが何故このような惨劇になってしまったのか?世間は「運動音痴の落ちこぼれが、スポーツ選手のエリート達のいじめに対して復讐した」という動機だけではこの事件の残虐性に納得することが出来なかった。もっと何か、何か得体の知れないものが彼らをこの血の惨劇に走らさせたと考えたかったのだ。そして、この「何故?何?どうして?」と言うモヤモヤを解決すべく、お決まりの犯人探し、スケープゴート探しを始めたのである。
◎生け贄
そんな大衆が見つけ出した犯人が「ロック」「映画」「ゲーム」であった。特に「ゲーム」は「アニメ」に代わり、最近の奇怪な犯罪の理由付けには最適で、何か大人にとって不可解なことがあれば「少年はゲームに熱中し現実と空想の区別がつかなくなった」という一言で片付けられる魔法の言葉と化しているところがある。この銃乱射事件でも犯人が「DOOM」という銃乱射ゲームに熱中していたことから槍玉にあがったのである。そして「犯人はゲームに熱中していた」と言う情報は何時の間にかに「ゲームが彼らに引き金を引かせた」と言う議論に変っていたのである。
◎前哨戦
この様な議論になってしまったのには、実はもう一つの銃乱射事件の存在がある。97年12月にケンタッキー州で14歳の少年が銃を5本盗み、学校で銃を乱射、3人の生徒が射殺され5人が怪我を負う事件があった。直接の動機はイジメへの仕返しであったと考えられているが、怒りに燃える被害者の親たちは、犯人である少年の両親を管理能力の欠如があったとして訴え、さらにどういう訳だか少年が普段遊んでいた「DOOM」やその他のいわゆる「残虐ゲーム」の制作会社に対しても「コンピューターゲームは犯人に殺害能力を抑えるのに必要な、抑制あるいは責任を教えることなく標的に銃を撃つことを教えた」として損害賠償の請求を訴えたのである。(セガ・任天堂・ソニーも被告である)
◎殺人啓発
この訴訟を起こすに際して原告側に強力な味方が現れた。それは元陸軍士官学校心理学教授が語った「軍では兵士が戦場に行ったとき、萎縮せずに敵に対して引き金が引けるように『DOOM』と似たようなゲームをシミュレーターとして使い、殺人を啓発していた」というものだった。彼の主張するところは、残虐ゲームは人間に元来備わっている殺人に対する無意識的な抑圧を解き放つ、つまり、それらのゲームをすることで、正常な人間が持つ殺人を忌避するはずの感覚が麻痺してしまうと言うことなのだ。
この発言により二つの銃乱射事件は犯人が同じゲームに熱中していたと言うことで関連性を持ち、社会問題にまで発展してしまったのだ。そして、このような報道が過熱する中、TVゲームは有害だとして事件を起こした少年と同世代の子供を持つ親たちを疑心暗鬼にさせてしまったのである。
◎銃社会
今回の事件で、暴力的なロックや映画、TVゲームが青少年に与える影響をめぐって全米で多くの論議が行われた。特にこれらを激しく批判したのは共和党の議員たちだった。何故、彼らはメディア悪玉説を唱えるのかと言うと、共和党の支持基盤は「全米ライフル協会」であり、彼らのライバル民主党、特にクリントン大統領を支援しているのが、ハリウッドを中心としたメディア産業であったことが関係しているのである。つまり共和党はバックのライフル協会をかばうため、事件の責任をメディアに押し付けようとしているのである。
そうなのだ、映画やゲームが精神的に殺戮を助長した罪よりも、高校生がショットガンやサブマシンガンを買える社会、デパートで釣り用品と一緒に銃が売られているアメリカ社会がこの悲劇を生んだのである。
この議論の中、彼らがよく聞いていたといわれるバンドのコンサートは市長により中止においこめられ、ディカプリオ主演の映画は犯人に影響を与えたという理由で訴えを起こされそうである。そしてTVゲームも遠からず訴えられるだろう。そして直接犠牲者を殺傷したショットガンやライフルはお咎めなし、事件直後にもかかわらず銃器の展示即売会やガン・ショーは予定通り開催された。ただ犯人が聞いていたというだけでロック・シンガーを弾圧し、実際に人を殺した銃をかばうとはおかしな話ではないか。
◎ゲームは人を殺さない
日本でも例の酒鬼薔薇の事件以来、ゲームやインターネットにおける倫理規定について問題になっている。新たな言葉狩りが始まろうとしているのである。しかしこれらの著作物というものは受け手の数だけ受け取りかたがあるわけで、世の中には物理の教科書で欲情するキ○ガイも存在する。しかしこんな例外を恐れていては我々は何の表現もできない。その著作に悪意や恣意的なものが無い限り、我々はその存在を認めるべきなのである。ゲームや映画などのメディアは我々の夢を少しだけ叶えてくれるモノである。それが「人を殴ってみたい、殺してみたい」という悪夢でさえも少しだけ叶えてくれるモノである。平常な人はそれで満足する。しかし心を病んでいる者はそれだけでは満足できない。それが犯罪につながるのである。ゲームでは治せない心の病が人を殺してしまうのだと私は思うのである。これらゲーム(おそらく今後はインターネット)は人を殺さない。人を殺すのは人間なのである。単純なゲーム害悪論では彼ら犯罪者の真意をはかることはできない、もっと根本的な解決こそ彼らには必要なのである。
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