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いくま治世
C,いくま体制
94年度は、新体制のもと幕を開けた。学習会とはそもそも魔首領奴体制下、女史が部内におけるイデオロギー維持装置として作り上げた物であったが、いくまはそれを巧妙に受け継ぎ、当人の真意はどうあれ結果として学習会エンターティメントという形で新たな決済手段を創造することに成功を収めた。いくま体制の意義を簡潔に述ベるならば、「学習会を通じたエンターティメントの部員への合理的配分の確立」ということになるだろう。
史家ラル氏が「エンターティナーとしては一流、政治家としては三流以下」という言業を残したが、この言葉こそいくま体制を如実に言い当てていると私には思えてならない。
政治とは「社会的希少資源の権威的配分である」と、かの政治学者D・イーストンは言った。この言葉が示す通り、いくま体制は素子女史から権威を継受することによってエンターティメントの配分には成功した。しかし現実の政治は利益を配分すると言う結果のみに終始するわけではない。ハードの側面に注目すれば、政治は状況・制度・組織の3レベルの順番を追って移行してゆく。いくまにハードを構築する力量があったかと言えば、答は先の引用文が示す通り否であるが、現実としていくま体制下においては代表会等、様々なハード強化及び学内外交の脱孤立に成功している。
これは補佐官“こぱっち”がリシュリューの如く局役員の立場から個人の顔の広さと、能なし部長の権威を利用し強権を振るった帰結として私は捉えたいが、外交面においては他サークルとのソフトボールなぞ画策するが部員の怠惰マインドまでは改革できず失敗に終わっている。またこの年は後に強権を振るうきゃみさん及び、その補佐官“ぢ”など問題山積みの94年度生の入部があったことを記しておきたい。
翌95年はいくま部長続投の中、幕を開けた。なぜいくまが続投できたのか。理由は様々だが最も有力な説が赤ナポ氏の提唱する兄貴反発説である。赤ナポによれば、その要因はいくまのパーソナリティにあるとしている。熱田は日比野という名古屋のスモーキーマウンテン(東南アジアに多い古く半壊しかけた住宅群)で育ち、典型的エリートの兄とプーの父との間で夭折した幼年時代を送ったことで醸成された彼のパーソナリティが家族への反発から取得単位数10少々と言う結果を生み出し、それがヤケクソにさせたとしている。
しかし学習会のマンネリ化と補佐官の就職活動への傾倒、そして自らの怠惰により95年度いくま体制は窮地に立たされるが、いくまはそれを無人化していた、ソフトボール部のボックス(部室)を占拠すると言う、対外強硬策を実施することで部員の目をそらすことに成功したのである。部員数は増加の一途を辿り、レーベンスラウムの拡大は急務となっていたのだ。
かくしていくま体制は一時は危機を脱したか、発言力を増しつつあったきゃみさんを始め94年度生の躍進に抗しきれず部長選に敗北、第一線を退いたのであった。
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