言語テロリストたちの哀歌トップへ
レキシフ資料館へ戻る
きゃみさん治世
第二章・きゃみ体制
「レキシキ」でも語られることのなかった、きゃみ体制以後を叙述することは本論の目的でもある。いくま体制は魔首領奴体制を巧妙に操作・改編することで継受したが、きゃみ体制はいかにしていくま体制を継受していったのか。また、あの激烈な権力政治はどのように実行されていったのか、詳述していきたい。
a,状況
かってフリードリヒ大王は「国家と言うシンフォニー、その楽譜は外交、それを奏でるのは軍事力である。」と言った。そしてきゃみさんはその就任演説で「朕は歴史部なり」と宣った。この言葉が示す通りきゃみ体制は、極めて現実主義的な色合いが濃くパワーポリティクスに終始した時代といっても過言ではなかろう。もはや4年生不在となった96年度の状況は94年度生のしたい放題であり、いなちん問題を始め様々な悪弊が顕在化したのもこの体制の特徴と言えよう。しかし特筆すべきは、いくま体制未期、代表会が枢密院化し部のコンセンサス形成が困難になっていた状況をきゃみさんは見事に打破し合意形成に成功した点である。
ではなぜそれが可能だったのか。私はそれを「2・3年生の保護と1年生の抑圧」というきゃみ体制独特の構造の中にその要因を見いだすことにしたい。即ち、2・3及び4年生を保護し支配サイドに取り込み、自身の協賛機関として再組織化することによって、それが1年生の抑圧装置として機能したのである。だからきゃみ体制を協賛機関の権威に裏付けられたコーポラティズムの一形態として見ることも可能であろう。
しかしその結果、決済手段としてのエンターティメントの分布は支配サイドに偏在し、外見的な安定の裏には階級分化と云う潜在的不安定要素が併立する状況に陥っていたと私は見る。したがってきゃみ体制は歴史部の円熟期と見る立場とプチトマト体制以降の階級闘争の遠因を作ったとしても史家の間でもその立場ははっきり二つに分かれる。
しかし、きゃみ体制はよく言われる様に決して平坦な時代ではなかった。補佐官“ぢ”が錯乱し外務大臣いなちんの女性問題に終始悩まされ続けた苦悶の時代でもあった。しかしその苦悶の中でもきゃみさんは暴力的なまでにSEGAの啓蒙者であり続けた。任天堂に対し最後まで容認の立場をとらず、ひたすら迫害の態度を固持し補佐官を失ったきゃみさんは太陽王ルイ14世ではなく、さしずめアウラングゼープと言ったところであった。
b,人権問題
きゃみ体制はまた、人権問題の多発した時代であり、中でもファットマン問題はその象徴であったと言えよう。問題の慨要はメガネのかけかたを、かねてより苦々しく思っていた赤ナポの一言が原因でファットマンが退部したことであったが、この赤ナポの暴挙をきゃみさんを始め支配サイドは褒め称えた。そしてこの暴挙は問責されるどころか、更なる人権侵害に拍車をかけ次の標的リトルボーイ(ファットマンのかたわれ・理由ムサ苦しい頭髪がイヤ)への迫害へ至ったのである。
外務大臣いなちんの女性問題もまた意外な形での人権侵害を生み出した。立場を利用しての電話。による女子部員へのプライバシー侵害であった。しかしこの事態に対して支配サイドのとった態度は前者とは180度異なるものであり、専ら女子部員の保護に努めた。
なぜ前者と後者の間にかような差異が生じたのであろうか。それを赤ナポは前補佐官こぱっちによる過度の「普通のサークルになろう」洗脳の結果による女子保護の影響と指摘している。この経験から我々は、およそ普通と言う言葉ほど正常な判断を誤らせ部員の健全な政治的態度を阻害する要因ともなることを、よく記憶しなければならない。
c,外交
いくま外交はイシダニアの獲得により従来の孤立外交とは一線を画すものとなった。即ちそれは、歴史部のボックスとソフトボール部のボックスを結ぶラインに他サークルからの不干渉エリアを築くことに意義があったと言え、膨張傾向にある歴史部の気概をよく示したものであった。きゃみ外交も基本的にはこのスタンスを踏襲したものであったが、更なる膨張傾向があったことは、きゃみさんの言葉からも明らかである。仮に、歴史部の対外政策の基調たる孤立主義を魔首領奴ドクトリンと呼ぶのならば、「三階一帯を乗っ取る。」と言うきゃみ体制の外交政策は紛れもなく膨張主義の現れであり、私はこれを「魔首領奴ドクトリンのきゃみ系論」と名付けることにしたい。
では何故、きゃみさんは膨張主義に走ったのであろうか。これを論ずるに当たり、手始めに当時の国際環境から述べていきたい。マンモスサークル、「自然」とそれに追随する「遊び」等のサークル群、オール名城文化局はこれらのサークルの影響下におかれ、既に合意形成の機能を失っている状態にあった。(もっとも最初から、この組織の目的は文化会設立にあり配下サークルの意図など介入する余地もなかったと思われる。ただ、95〜96年当時の組織体制は設立理念の上に安住し、支配サークル層の統治装置と化していたと言う説、〜文化局機関説〜が近年の主流でもあることを読者諸兄には知っていただきたい。)
その中できゃみ外交は一般サークルは支配サークル層に搾取されると言う、厳然たる事実をふまえ、獲物の前に横たわる屍から、支配者に噛み付くタスマニア・デビルヘと変貌を遂げる、現状打破勢力としての歴史的役割を負ったわけである。この政策転換の理由をどこに求めるのか、私はそれを同期の他サークル指導者達の行動に啓発されたきゃみさんのシンパシーの葛藤に見るのだが、読者諸兄はいかがなものであろうか。そして、この様な政策転換に当たってきゃみさんが部に要求したのは挙国一致体制の構築であった。それが、部内情勢の複雑化(支配層と現状打破勢力たるギャンブラー達との階級闘争)の遠因となったことは言うまでもないだろう。
ただ惜しむらくは、きゃみ外交は宮廷(オール名城)の権謀術数を勝ち抜くには部内体制にせよ当人の力量にせよ、あまりにも脆弱であったと言うことである。つまり最初から勝ち目のない戦い、それがきゃみ外交と歴史部ではなかったかと今更ながらに私は思えるのである。
d,総括
きゃみ体制の残したものはいったい何だったのだろうか。そこできゃみ体制のもとで教育相を勤めた赤ナポの言葉を引用したいと思う。
「私はねぇ、部員全体を教化する時はいつもキャラメルを与えたんですよ。我らの偉大な指導者様が与えて下さったものだってね。それでね、男子部員と女子部員とで対応を変えるのがまたミソなんですわ。男子部員に対してはこう言うんです。指導者様にケツむけるな、指導者様の前でチ〇ポを見せちゃいけねぇ、ってね。でも女子部員に対してはまた違うんですね。なんて言うかって。それはね、お前達は指導者様の肋骨から作られた、とか。指導者様の前ではオ〇コとチ〇ポしかいっちゃいけねぇ、ってね。なんと言うかまあ、私らにとっては気持ちのいい時代でしたなあ。」
次に史家ラル氏の述べた言葉を引用すると
「bashiは歴史部初の官僚であった。」
この二つの言葉が示すところは何であろうか。確かにきゃみ体制は官僚制と統制教育という事実を残した。これらはきゃみ体制の強権性を象徴する要素であるが、きゃみ体制とはこれらの事実をふまえてこそ研究価値の地平が広がるテーマであると言うことを、賢明なる読者諸兄は忘れてはならない。最後に史家いくまの残した言葉で本節を締めくくることにする。
「統治者としては一流、政治家としては三流」
プチトマト治世へ
真・姥桜トップへ戻る
レキシフ資料館へ戻る
このホームページのホストは
です無料ホームページをどうぞ