言語テロリストたちの哀歌トップへ
優生学とT4作戦
きゃみさん
〇優生学の概略
20世紀に入って世の中に「優生学」というものが現れた、「優生学」とは「進化論」のダーウィンのいとこにあたるゴールトンが主張したもので、遺伝に注目して優秀な血統や人種を増やし、劣ったものを減らそうとする「科学」である。
1912年にはロンドンで第一回国際優生学会議が開かれ、米国の各州や北欧各国が、精神障害者らに不妊処置を施す断種法を制定し、さらに遅くから開始されたナチス・ドイツの断種法はナチスのいつもの例に漏れず徹底的におこなわれた。これがいわゆる「T4作戦」「ラインハルト作戦」につながるのである。
このナチスの蛮行を見た各国の優生学は一挙に下火になったが、スウェーデンでは1976年、日本では1996年まで不妊処置が続けられていた。そして今でも出生前診断において障害をもつと思われる胎児は処分されているのである。概略はこれくらいでもっと詳しくみていこう。
〇社会ダーウィニズム
1859年ダーウィンは「種の起源」の中で「自然淘汰による適者生存の法則」を発表した。この学説を広く人間社会一般に対し適用しようとしたのが「社会ダーウィニズム」である。この思想は産業革命が生み出した多数の弱者を好んで攻撃の対象とし、19世紀末には大きく勢力を伸ばすことになった。
第一次世界大戦後の1920年、障害者(特に精神病患者)の安楽死論を正面きって唱える書物が初めて公に現れた。それが法学者カール・ビンディングと精神医学者アルフレート・ホッヘの共著「価値なき生命の抹殺に関する規則の解除」である。これがナチスの安楽死計画にどの程度の影響を与えたのかは今でも議論が絶えないそうだが、ナチスが好んで使っていた「価値なき生命・レーベンスウンヴェルト」という呼び方は、この書物のタイトルに由来してるそうな。
〇優生学
さて、今日では精神病に限らず、ほとんどの病気に遺伝が何らかの形で関与しているといわれている。精神病も癌や糖尿病や高血圧などと同じように古くから精神病になりやすい「家系」があることは経験的に知られていた。ドイツにおいてもその経験則は重んじられていた。
このような経験的な見方に科学根拠を与えたのが、1900年のメンデルの法則再発見にはじまる遺伝学の台頭であった。遺伝学はまた、先に述べた社会ダーヴィニズムとともに盛り上がってきた優生思想に対しても強い影響を与えることになった。
優生思想とは、劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫を増やすことにより、単に一個人の健康ではなく一社会あるいは一民族全体の健康を計ろうとする思想であり、そのため民族衛生学と呼ばれている。民族衛生学という言葉は1895年にドイツの優生学者アルフレート・プレッツによって初めて用いられ、彼がドイツの優生学の出発点ともなった。
ドイツでは1905年にベルリンで世界最初の優生学会「民族衛生学協会」が誕生し、07年には協会が国際学会に発展し、同様の優生学会が英国や米国でも誕生し、先に述べた12年の国際優生学会の開催となった。
優生学のこのような進展は第一次世界大戦によって中断されたが、敗戦後のドイツ・ワイマール共和国では、遺伝学によって科学化された優生学をむしろ積極的に政治に取り込もうとする動きが活発化した。民族衛生学は行政レベルでの人口・保健政策に結び付けられ、妊娠中絶や断種問題などの解決に応用されるようになった。こうした中で優生学は容易に人種主義的傾向に結び付き、つまりはナチズムのはじまりでもあた。バウアー、フィッシャー、レンツの3名の優生学者の共著「人類遺伝学と民族衛生学」はその典型で、後にアドルフおじさんがこれを引用して「我が闘争」の中で人種論を展開している。
〇断種法とナチス
精神病患者や障害者の断種をめぐる議論は、先の社会ダーウィニストたちを中心に盛んになり、のちに述べる優生学の基本的主張ともなっていた。1892年には、スイスの精神科医アウグスト・フォレルによって精神障害者に対する初の断種処置が実施されるに至った。米国インディアナ州では1907年、断種法が制定され、最初に書いたように1912年の国際優生学会議によって各地で断種処置が行われるようになった。
一方ドイツでは1933年1月30日にアドルフおじさんが首相に指名されてナチス政権が誕生したことによって遅れながらも同年7月14日にナチス断種法は議会で承認されることとなった。
正式名称は「遺伝病の子孫を予防するための法律」といい、その趣旨は、当時の内務省保健局長アルトゥア・ギュットの言葉をかりると「次世代の健全な社会を実現するため、民族の体に巣くう劣等な遺伝子を排除する」ことにあった。具体的には、精神薄弱者、精神分裂者、躁鬱病患者、てんかん患者、重症アルコール症者、先天性の視覚障害と聴覚障害、重度障害児、小人病、痙性麻痺、筋ジストロフィー、フリードライヒ病、先天性股間節脱臼の患者が断種処置の対象とされたのである。
それからこの断種法の重要な点は、断種が必ずしも本人や家族の同意を必要としない、とされたことである。すなわち、ここでいう断種は基本的に「強制断種」を意味しており、断種の決定は「遺伝健康裁判所」によって行われたのである。こうしてナチス政権下で、この法律により強制断種された人の総数は、20万〜35万人といわれている。
〇T4作戦への道
ドイツ経済は知ってのとおり第一次世界大戦後大混乱をおこしており、もちろん精神病院の経済環境も大きく悪化していたが、アドルフおじさんが政権を握ってからはさらに加速度をあげることとなった。精神病院をはじめ、障害者施設に対する国家予算(福祉医療費)は、ナチス政権下で急激に削減され、そのしわよせは入院患者の食費にも深刻な影響を与えるまでになった。
さて、ナチス政権が今日一般に初めて「安楽死」を行ったとされるのは、1939年の初頭の「クナウアー事件」である。この事件は38年に奇形児を生んだクナウアーさんが総統閣下へじきじきに子供の安楽死を嘆願した手紙を書き送りそして受理されたというものである。この事件をきっかけにおじさんは専門家を集め国家機密のもとで障害児の「安楽死」を実施するための委員会を設置するように指示したそうな。
この委員会は同年5月に発足し、同年8月には各自治体に「障害児の登録」のため極秘通達を発送した。これによってすべての医師と助産婦は、新生児を含む三歳未満の障害児を保健所に届けでることが義務づけられた。さらにこの通達の発送のわずか前の7月、アドルフおじさんは児童のみならず成人の障害者を対象とする組織的な安楽死作戦を実施するために会合を開いた。その会議の結果、成人障害者の「安楽死」を実施するための委員会が設けられることになった。この委員会は参加は自由意志にもとづくものとされていたが、当時のドイツ精神医学会を代表とするそうそうたる顔触れが参加していた。そして同年の9月から10月にかけて当委員会において、実際の殺害方法(COガス)や成人障害者の登録方法、計画を実行する場所などが選定されたのである。
〇T4作戦
1939年9月1日ポーランドに侵攻したドイツは同27日には戦闘を終結させポーランドをソビエトと分割占領した。同時にドイツに占領されたポーランドの各地の精神病院では、入院患者の抹殺が開始された。同29日にはコクボロフ精神病院に収容されていた2342名の患者の銃殺がその後約一カ月にわたり行われることになり、他の場所でもシュヴェッツ(1350人)オヴィンスク(1100人)クルパルコフ(1179人)などで入院患者の大量銃殺が行われた。
さらに、銃殺とは異なり大型の家具運搬車を偽装した「ガス自動車」で患者が抹殺された精神病院もあった。ティーゲンホーフ(1201人)コステン(534人)ヴァルタ(499人)コジアン(534人)コカノウカ(692人)などである。
ポーランド侵攻の開始とほぼ同時期に、成人障害者安楽死機関「精神病院帝国作業委員会」(略称RAG)は活動を開始した。1939年9月21日、RAGは全国の精神病院施設に調査票を発送して施設の登録を行った。登録の完了した施設には順に、入院患者の個人データを把握するための別の調査票が送られた。これには左下に黒い太枠の空欄があるがそこには後にRAGの「鑑定医」が安楽死なら赤字で+、対象外なら青字で−が書かれることになっていた。
判定の基準としては、特に労働能力の有無、診断名(精神分裂病、癲癇、老年性疾患、梅毒性疾患、精神薄弱、神経疾患の終末状態)、五年以上の入院期間、犯罪歴の有無、それに人種のいかんによっていた。それから、「安楽死」の対象患者を各病院から安楽死施設へと秘密裏に移送するための機関も設立されていた。
1940年4月、安楽死作戦が本格的に始められた後、RAG本部は総統官房を離れて、同じベルリンのティーアガルテン通り4番地(Tiergartenstrasse4)にある別の建物へと移動した。このときから、安楽死作戦はその本部所在地の名称を略して「T4作戦」(テー・フィーア・アクツィーオン) という正式の暗号名で呼ばれることになった。
さて、各地の精神病院から選別された患者・障害者をCOガスによって「淘汰」するための抹殺施設をどこに設けるかについては、すでに39年の秋頃から検討されていた。そのため、ドイツ国内の4つの精神病院施設、すなわちブランデンブルク、グラーフェネック、ゾネンシュタイン、ハルトハイムが選定され、遅くても40年3月までにはガス室と焼却炉が付設された。(41年にはベルンブルクとハダマールの州立精神病院にも新たな抹殺設備が設けられた) 40年1月の初頭、ベルリン近郊のブランデンブルク州立精神病院に安楽死組織の関係者が集まって、最初の試験的なガス殺人が実施された。ここにはすでにシャワー室に見せかけたガス室と二基の可動式焼却炉が設置されていて、あらかじめ選別されていた20名程度の入院患者が最初の犠牲となった。それはアウシュビッツに先立つこと二年以上も前のことであったのである。そしてこちらの死の執行人は医師であり、ガス室にCOガスを送り込むためのガス栓の操作は、すべて医師の手によって行われた。そして彼ら医師は殺害した精神病者を解剖し標本などにしていったのである。
T4作戦においてはガス室による殺害の他にも薬物の過剰投与や計画的な食料制限によっても行われていた。薬物投与は子供の安楽死に際して多く用いられ、しかも一部の施設では終戦後もなおしばらくの間、連合軍にすら気づかれぬまま続行されていた。食料制限による計画的な餓死は、抹殺施設に限らず多数の精神病院で広く行われていた。そのために、すべての食事から徹底的に脂肪分だけを取り除いた特別の献立が安楽死組織委員の一人プファンミューラーの手で考案されたりもしていたのである。
〇T4作戦とラインハルト作戦
1941年8月、それまで極秘扱いとされてきたはずのドイツ国内でのT4作戦がばれてしまい、一部の高位聖職者から非難の声がわきあがると、アドルフおじさんは表向き「安楽死中止」の命令を出した。しかし、この命令で実際中止されたのは精神障害者のガス殺人だけであり、前述した薬物による「淘汰」はむしろこの中止命令のあとからいっそう本格化した。また40年1月から始められたドイツ国内の精神病院ガス室での抹殺による犠牲者の数は、この時点で総計70273名に達していた。
一方、おじさんの中止命令が下された時期は同時にヨーロッパ全土での「ユダヤ人問題の最終解決」が帝国保安本部(長官ラインハルト・ハイドリッヒ)に対して下命された時点とほぼ一致している。このことはT4作戦の形式上の中止が、実際にはユダヤ人絶滅作戦への方向転換であった可能性が考えられる。事実T4組織にはその後新たな任務が与えられる。それは「ポーランドにおけるユダヤ人絶滅作戦」後の暗号名「ラインハルト作戦」である。
T4作戦の関係者はそれぞれポーランドで責任者に抜擢されベルツェック、ゾビボール、トレブリンカの3つの絶滅収容所は元T4職員の手で建設され、運営されていた。殺害方法もそれまでのT4作戦の手法が、ほぼそのままの形で踏襲された。
1943年10月に終了したラインハルト作戦の犠牲者は、みなさんもご存じのように少なく見積もっても170万人にのぼると推測されている。
〇日本における優生学
日本の医学はまず富国強兵政策にともない軍陣医学の発達に力を注いでいたため、一般市民を対象とする医学はお粗末なものだった。そこにきて精神医療なんてまともにできるわけがなかった。
日本初の公立精神病院といわれる京都癲狂院は1875年設立ではあるがお寺の片隅の小規模なもので7年でつぶれてしまった。つづいて設けられた公立精神病院は、1879年に開院された東京府仮癲狂院であったが、これが若干の例外を除いて、終戦に至るまで我が国で実際上唯一の公的精神病院施設であった。この他はほとんどが小規模な民間の私立精神病院であり、公立私立ともに精神障害者の処遇は、もっぱら隔離収容のうえ様々な拘禁具によって患者を拘束するというものであった。1935年末日の時点で、日本全土、植民地もあわせて精神科の病床数はわずか2万床足らずで、同じく入院患者も15000名あまりにすぎなかった。
精神障害者の断種についても同様のことが言える。1940年に成立した「国民優生法」は、当時のナチス断種法を日本的に焼き直して制定されたものであるが、この時点においても日本はまだ国家が遺伝病対策に本腰を入れる段階に達してはいなかった。
しかし、こうした状況下でも精神疾患者の実態調査は一部で始められていた。また、日本が戦時経済体制を組み、米穀配給統制法を公布する1939年以前から、すでに精神病院の入院患者に対する食料制限が行われ、その結果敗戦までに多数の患者が餓死したという事実もある。(おそらくナチスのそれとは異なる基質のものだと思うが)
終戦後、1948年国民優生法にかえ優生保護法が制定されるにあたり、日本の精神障害者の断種は飛躍的に増加する。皮肉にも、戦後の病院施設と精神医学の近代化により精神病院が充実した結果である。この後、欧米では優生学は衰え、日本もそれにあわせて断種の人数は減るが、諸外国が早々に断種法を改正した中、日本はいつもの如く諸外国に遅れること何十年やっと1996年優生保護法は母体保護法に改正されるにいたった。
〇今日の優生学
ごらんの通り精神障害者を直接抹殺する、又は断種するなどの方法は、今日悪法として消え去ったが、しかし今も優生学の思想と技術は脈々と続いている。それが出生前診断である。
1978年英国で世界初の体外受精による赤ちゃん(試験管ベイビー)が誕生した。この技術により不妊症で悩んでいたカップルにも子供をもつことができるようになった。そしてそれと同時に先天的な障害をもった子供をあらかじめ選別して、先天的な障害のない子供だけを生むことができるようになったのである。もう少し詳しく述べると、別に体外受精を使わなくても、生命の選別はできるのである。
超音波診断、羊水診断、絨毛診断などと呼ばれる技術であるが、要するに、妊婦のおなかにいる胎児の様子を調べて、その胎児に奇形や障害がないかどうかをあらかじめ知ることができるのである。もし胎児に障害や奇形が見られる場合、日本の場合経済的なものを理由にすれば妊娠22週未満の人工中絶は罪に問われない。仏国、伊国では胎児に遺伝的障害が見つかったときは、それを理由に無制限に中絶できるのである。奇形や障害とは異なるが、精子を分離することで男女の産み分けもでき、さらに排卵誘発剤によって四つ子などができた場合、減数手術といって子供の数を減らすために2、3個胎児を破壊(殺す)することもあるのである。
体外受精の方になるともっとすごい。とりあえず体外受精してそのあと四分割から八分割になるまで様子をみて、そして分裂した細胞の一つを取り出して検査をする。そこで異常があれば受精卵はすべて廃棄。異常がなければこの受精卵を女性の体に戻すのである。これを受精卵診断というが、さらに遺伝子の研究が進むと、この診断で障害だけではなく、癌やアルツハイマーなどの病気になりやすいものは廃棄してしまえばいいわけである。
話がずれてしまったが、天才の精子が冷凍保存されて売買されている今日、新たなT4作戦が行われていると思いませんか。
言語テロリストたちの哀歌トップへ
このホームページのホストは
です無料ホームページをどうぞ