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「8・18政変 長州藩と孝明天皇の関係」

byプチ・トマト

1 はじめに

 何てものを引き受けてしまったのか。8・18政変に関して、同様の研究をした相方のM浦君には深く同情する。そして来年は二度と同じ轍をふむまいぞ。今回のレポートの主題は「裏切りの歴史」である。私は愚かであった。自分からこのテーマに8・18政変を取り上げていながら、改めて調べてみると、実は裏切りの事実などどの書物を調べても存在しなかったのだ。(私はそれまで漠然と薩摩と長州の間に裏切りがあったのだろうと考えていた。)そんなことに気が付いたのは、まさしく原稿締切直前となってからだった。だから苦心惨憺、なんとかこのテーマで“裏切り”に関してまとまらないかと考えた挙げ句がこの“長州藩と孝明天皇”とのこの事件への関係である。言うならば、視点を少し変えて見たということだろうか。但し、要所要所がかなり乱暴なものになっており、また説明不足の点も多々ある。どうにかこうにか文として連結させたという感じである。読者のみなさまには一学生の戯言としてこの拙文に、どうかご容赦順いたい.

2 幕末政治史概要

 江戸末期、幕藩体制はあらゆる面において矛盾を庶民並びに下級武土層に抱かせるにいたった。その表れとしては、まず経済面では、所謂古来の農村の姿から進歩的な農村、すなわち農民の商品作物生産がすすみ、その中から上昇してきた農民等によるマニュファクチュア(工場制手工業)経営が誕生したという点。又政治面においては、一連の幕藩体制の破錠を正すべく断行された改革の結果的行き詰まりが、一種の支配者層の絶対的封建体制への盲信的依存のゆえの様々な幕府本位の強行政策は、これに従う庶民及び下級武士層に体制打破の思想を植え付けたのである。故に幕末期には大塩の乱、もしくは尊王論的な思想を打ち立てての宝暦・明和事件も生じている。
 これら、幕府のアナクロニズム的政治は1853年のペリー来航によって封建制日本の最も脆弱な国防という部分において見事に国内に幕府の負の部分を曝け出してしまった。この時より、ようやく幕府は今風で言うならば“行政改革”に重い腰をあげるのである。ここから数年(井伊大老まで)は、幕府はそれなりに老中を中心とした開明的改革に尽力し、それなりの成果はあげたと私は解釈している。例えば日米和親条約時に老中首座であった福山藩主阿部正弘は特に評価できると思う。(具体的な彼の活躍は割愛)
 しかし阿部から堀田正睦をへて、幕閣指導者となった大老井伊直弼の全般的な封建体制・幕藩体制強化策と、国外的には勅許を待たずしての日米修好通商条約調印、それに国内的には13代将軍家定継承問題に絡む水戸、−橋、薩摩などの雄藩勢力との対立など、これら全ての問題に対して旧来の幕府政治体制を踏襲した形で結論を導きだす方法をとる。よって井伊は14代将軍には、彼の推す紀伊慶福(のち家茂)を強引に決定させる。また、これと条約調印に絡んで異を唱えた、水戸斉昭をはじめとする尊攘派志士たちを、安政の大獄によって処分するのである。
 彼ら尊攘派志士たちは、井伊の「勅許を得ず」すなわち、朝廷軽視の姿勢に憤りを感じたのであった。そしてこれに付随して彼らの指導者が弾圧されたことは、結局井伊大老暗殺という結果となり、ここに幕府の権威は失墜し、政治のイニシアチブは、西南雄藩(長州・薩摩)をはじめとする有力諸藩の手に移っていく。この後国内の思想は尊攘論が台頭しその中心的役割を担ったのが長州藩であった。
 幕府はこうした尊攘派の躍進と雄藩勢力ヘ組み込まれつつある朝廷(天皇)への懸念から「公」(朝廷)「武」(幕府)の協調を模索し遂に14代将軍家茂のもとに孝明天皇の妹和宮を降嫁させる。しかしこれによっても尊攘派を懐柔するには至らなかった。ここから尊攘派と公武合体派の対立が生じはじめる。主に尊攘派の旗手となったのが長州藩・土佐藩であり、公武合体派の中心は一橋慶喜、松平慶永らでありこれに加えて薩摩藩も島津久光以下、尊攘派から公武合体へと転化し(1862・4の寺田屋事件は顕著な例だろう)、後8・18政変の中核となる。
 幕府はその後老中安藤信正が坂下門外において負傷し、失脚する。この時点で幕府権威は朝廷(公)の力に頼らなければ体制維持は困難であったと言えよう。こうして上記した通り雄藩勢力の薩摩藩が朝廷の威をかり、勅使を奉じて「文久改革」を断行すべく江戸に赴き、ここに一橋慶喜=松平慶水政権が樹立する。薩摩藩は以後しばらくの間幕政に参画することとなり、−方長州藩以下尊攘派は薩摩藩にかわって、京都で主導権を握る。
 尊攘派は、このあたりからいよいよ急進的となり「即時攘夷」を唱え、又その思想を庶民にも受け入れさせるために、当時の開国によって起こった社会問題、政治問題などの矛盾をもその理論に組み入れた。そうして尊攘派の理論は徐々にかつての攘夷のための尊王から尊王反幕の為の攘夷に変わりつつあった。

3 孝明天皇と政変との関係

 2といささか重複するが、後期水戸学派から、幕末期の一大思想となった尊攘論は、井伊大老がたおれた後、その思想は外国からの市民への様々な影響(物価問題など)と絡めて、その対応をすべき幕府への不信感へと成長し討幕という意味合いが濃くなるのである。無論朝廷においても、一連の井伊大老の勅許を得ずに調印した日米修好通商条約は、急進尊攘公卿等がその思想的勢いに拍車を掛け、朝廷も尊攘一色となりつつあった。
 幕府も、このような動きを懸念し「公武合体」策により、朝廷との友好協力関係を模索するが、多数の尊攘派の支持は得られなかった。この間に、薩・長・土藩勢力はのび、殊に薩摩藩は大兵をもって尊攘派代表の形をとって、勅使を奉じて江戸に下向し「文久の改革」を行い、幕政改革を断行するのであった。しかし急進尊攘派にとって、幕閣改造はもはや時代の流れからして満足出来るものではなく、これにより彼らは薩摩藩に失望を感じ、京都における尊攘派の期待は長州藩に向けられ、その地位は確固たるものとなる又朝廷は長州による傀儡化が鮮明となっていく。
 やがて、「公武合体」は実現し、そしてここに尊攘と公武合体という二大思想の対立が現われた。この頃の尊攘運動には大きくその思想にふたつの様式があったと見ることが出来る。
 それは
(1)古来からの尊王・攘夷である。端的に言うなら幕府体制を維持し、夷狄に対してこれを排除しようという純粋的な理論である。(水戸学的。薩摩の島津久光は公武合体派と見られがちだが、実際1862・8の生麦事件の処置などから見て、これに当てはまるだろう。)

(2)こちらが長州藩を筆頭とする急進的(ラジカル)な理論で、即時攘夷決行、討幕という考え方。

 こうした長い前置きを経て起こったのが長州のおい落としを薩摩・会津が狙ったクーデター、文久3年8月18日政変であった。今回は「裏切り」がテ−マであるので、ここからは少し角度を変えて孝明天皇の辺りからこの事変を追って、強引に8・18=裏切りへとをもっていきたい。
 上述したように朝廷において実質的権力を握った長州藩は文久3年2月、関白鷹司輔煕に働き掛け朝廷から幕府に「攘夷期限」を定めさせ幕府に攘夷に対して逃げ口上をさせないように迫らせた。ついで3月には京都に上洛した将軍家茂が賀茂神社へ攘夷祈願に行幸する天皇の供奉をさせられ、ここに朝権と幕府の優劣関係の逆転が民衆の前に明らかにされた。そして4月には、幕府はついに攘夷期限を5月10日と定めるにいたる。これらは全てが長州藩と一部尊攘派公卿が演出して、朝議決定として行なわせたことであった。
 即ちこの頃になると「朝議」(=朝廷内の意志決定=詔勅につながる)は激派志士と公卿の自己目的遂行の為には、一旦出された詔勅を、強要によって変更せしめることもあるほどであった。
 このような状況下で迎えた文久3年5月10日長州藩は、下関海峡を航行する外国船に向け、砲撃を開始した。結局実際に攘夷期日が来て決行したのは全国でただ長州一藩のみであり、ある意味で長州藩にとって孤立の危機を抱くようになる(対岸に接する小倉藩=譜代小笠原氏15万石は長州救援の派兵はなかった又近隣諸藩にもその動きはなかった。後に小倉藩処分問題に発展)こういった事情を背景として、天皇自らによる「攘夷親征」という必要性を強めた。
 では「攘夷親征」とは一体何かというと、尊攘派の支柱である天皇自らが御所を出て夷狄追討に立ち上がるという意味ではあるが実際上は親征行幸という形で天皇が御所を出て攘夷祈願に似た行動をとることによって攘夷実行に移さない幕府に対する一種の脅しをかけ詔勅(攘夷決行)に従わなかったということで幕府を追い詰めようという魂胆が少なからずあったようである。また攘夷の権を朝廷が掌握し、人心を奮起させる所にも主眼があったようである。
 しかしこの親征には朝廷内外において様々な意見が出された。例えば近衛忠煕父子らは慎重反対論を唱え、又因幡藩主池田慶徳は時期尚早論を唱えた。肝心の孝明天皇自身はどうであったかというと、天皇自身は初期の段階(井伊の強権政治のあたり)では純粋な尊王攘夷に対しては是とする向きもあったが、しだいにエスカレートした長州を頭とする尊攘派には公武合体以後かなりの嫌悪感があったようだ。しかしこの感情は「天皇」という地位にあるにおいては一個人としての感情であり、「朝廷の天皇」としてこの感情が公に現われたはずはない。結局、天皇としては幕府を窮地に追い込む意志は毛頭無かったようであるから慎重反対論に心情はあったものと考えられる。
 このような動きの中でもう一つの問題が起こった。それが先に触れた長州藩外国船砲撃とその報復に対して何ら救援を出さなかった小倉藩への処分に関する一件である。長州藩はこれに断固抗議し、朝廷としては「西国鎮撫使」という形で、朝彦親王(中川宮)に対して勅命を下した。しかし、中川宮は親征なら引き受けるが、小倉追討ならば拒否する態度をとった。天皇としては、親征行幸不許可、その代わりに尊攘派に対して、西国鎮撫使によって体面を立てようという意志があったから、内勅により宮を説得するが、失敗する。妥協案として「八幡行幸(岩清水)」プランを建白する。
 その後、8月12日になってこれまで親征行幸に拒否の姿勢をしてきた天皇に変化が見られる。その変化は二条斉敬(関白)が池田慶徳に与えた密命書翰により分かる。その内容は簡単に言えば一両日中に天皇からの勅書が下りその中には親征行幸の可否は在京四藩(因幡・備前・米沢・阿波)に任すから相談の上、意見具申せよというものであった。彼らとしては親征行幸は時期尚早であり、彼らが直接江戸に下向し攘夷決行を将軍に説得する旨のことを言上するつもりであったが、突如急進尊攘派の策により「大和国親征行幸」(神武陵・春日社に天皇が行幸して親征の軍議をなし、伊勢神宮に行幸するというもの。)が朝議決定として浮上し、且つ西国鎮撫使の件も決定された。
 この背後で互いに公武合体派として繋がっていた薩摩・会津両藩は着々とクーデタ一準備を進めていた。そして薩会両藩は公武合体派で西国鎮撫使を固辞していた中川宮に接近し、最終的に決意したのは他ならぬ「天皇」自身だった。かなり迷いを見せた天皇であったが、17日中川宮に天皇は密命を下し薩会両藩が近衛父子、二条斉敬左大臣を説得し、いよいよ政変は勃発するのである。
 このクーデターの詳しい内容については割愛するが、このクーデターの結果を客観的に見るならば京都から尊攘派は一掃され公武合体派が台頭することとなった。また薩長両藩の確執は一段と深まり対立は禁門の変で最高潮に達するのである。

4 8・18政変における裏切りとは

 このクーデターは、はたして今回のテーマの「裏切り」として片付けられるだろうか、自分で言うのも何だがかなり無理があるように思う。しかし愚痴ばかりではいけない。かなり無理はあろうとも私なりの「裏切り論」を展開してみたい。
 本来裏切りの意味もしくはその定義は「約束・信頼などを破って敵方につく」行為である。これをそのままこの政変に当てはめることはどこをどう解釈しても無理である。であるから私はその定義に捉われず考えてみた。
 この8・18政変をもう一度、長州と孝明天皇の立場に立って見てみる。
(1)長州藩・・・尊攘派の中核として薩摩が公武合体に転じてから朝廷工作の主導権を握る。しかしその思想はしだいに急進的となり、尊王・攘夷という言葉はある意味で討幕へむけての名目となっていく。
(2)孝明天皇・・・初期段階開国に対して反対していたこともあって攘夷思想そのものを否定していたわけではないようである。しかし幕府から再三にわたる公武合体策の提案により、これが実現する。これ以後は極言するなら朝廷優位になったこともあってか佐幕的傾向が随所にあり急進尊攘派を“姦人”として憎悪の対象とまでするようになる。

 これだけ見ると全くl8O°の見解の相違ではないかと感じるだろうが、ここで注意しなければならないのは孝明天皇のこのような態度は公にはっきりとその考えが外に出たわけではないということである。というならば長州をはじめとする尊攘派はその意志をうすうす感じてはいただろうが、「天皇」という絶対的存在に自らの自信と共に過信があったと見なければならない。又少々天皇という存在を見縊っていたといえなくもない。長州にとって「天皇」は、自らの手の中に匿われている“最後の切札的存在”として身勝手な推測が行なわれていたのではないか。また「朝廷」に対しても同様の意識を有していたのではないか。だからいざ政変が勃発すると「まったく寝耳に水の予期せぬこと」即ちある種の「裏切り」にあったと思ったはずである。
 また孝明天皇はこの政変においてかなり重要に絡んでいる。例えば8月16日〜17日にかけての天皇の行動は、政変のポイントとも言えよう。それは、この両日天皇は中川宮からの政変決意への説得に対しかなり悩んだうえ、遂に17日天皇から中川宮に対しての密命では会律・因幡両藩に命じ事を挙げることと、中川宮と薩摩藩はこれに関与しないことなども細かく指示しているのである。これだけ見ても十分に天皇は政変に対し主要な役割をしていることが分かる。
 これらの点から「長州」と「天皇」の関係から言えることは、長州藩にとっての「天皇」像の過信とその思想上・政策上のずれ、それが天皇の公武合体以後の佐幕的傾向と摩擦を生じ、「天皇を操る幕府憎し」と認識され、急進尊攘派にとってますます強行的措置をとらざるを得なくなったという事だろう。これらを目のあたりにした「天皇」を始めとした公武合体派がこれらを一掃排除しようと「裏切り」を犯したのも当然といえば当然だろう。

参考文献
「明治維新の哲学」 市井三郎著 講談社
「明治維新」 遠山茂樹著 岩波書店
「文久3年8月18日政変に関する一考察」(「幕藩権力と明治維新」明治維新史学会編 吉川弘文館)
「日本の近世(18)近代国家への志向」 田中彰編 中央公論社
角川日本史辞典 角川書店

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