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幕末の薩摩藩

byM浦君

 薩摩藩といえば、幕末期において西郷隆盛・大久保利通といった明治維新の立役者を出した藩である。それでは薩摩藩自体はどうであったのか。そのあたりを中心にして話を進めていきたい。

1.薩摩藩とは
 薩摩藩は薩摩・大隅・日向の三国、77万石を有する全国二位の大国である(一位は加賀百万石)。そして1600年の関ケ原合戦においては西軍として徳川家と戦った立場にある。関ケ原合戦に敗れた薩摩藩は領土没収は免れたものの内に秘めた幕府への敵愾心はかなりのものであったようだ(*1)。幕府の密偵は皆殺しにして徹底的の秘密主義をとっていた。鹿児島弁は幕府の密偵が言葉がわからないように作られた言葉であるという説があるくらいである(*2)。正直なところよく取り潰しにあわなかったものである(*3)。
 ところで、先程薩摩藩は77万石と書いたが、それでは薩摩藩は豊かであったかというとそうではない。それどころか超のつくほどの貧乏国であった(*3)。理由としては幕府からの締めつけも当然あるが(参勤交代とか普請工事)、それよりも藩人口に占める農民階級の少なさ(*4)、毎年やって来る台風、全土を覆うシラス台地の影響の方が大きい。そのため農民への税率は67%(*5)という高さであった。

*1 当時薩摩藩には9月15日(関ケ原合戦の日である)になると合戦当時の藩主島津義弘の墓のある妙円寺まで完全武装の若者が「ちぇすと、行けぇ関ケ原!」と叫びつつ駆け足行軍するというイベントがあった。
*2 鹿児島弁は確かに分かりにくい。鹿児島弁で「うっかた」は奥さんという意味だし、今も実在する地名で「指宿」で「いぶすき」とよむ地名もある。
*3 1820(文政3年)時点において藩の負債は500万両。利子7%で年35万両になる。藩の収入は18万3千両であったから普通払える額ではない。
*4 薩摩藩の人口比率は農民54%、武士40%。普通この時代の人口比率の内90%は農民である。
*5 江戸時代の税率は五公五民、つまり税率50%が基本である。いかに薩摩の税率が高いかが分かる。

2.薩摩の財政立て直しとお家騒動
 前述の通り薩摩藩は超貧乏国であった。そのため、当然ではあるがその立て直しが図られる。1830年12月藩主島津斉興は家臣の調所広郷に財政立て直しの命令を下す。その内容は
一、10年以内に50万両を貯蓄すること
二、幕府への納付金、非常手当ては別であること
三、古債証文(借金手形)をすべて回収すること の三つである。何と無茶な。
 しかし、広郷はこの命令から10年後250万両以上の金を貯めることに成功した。その方法は次の通りである。
一、負債は年2万両の250年(!)払い(*1)
二、黒砂糖総買い入れによる砂糖専売
三、琉球貿易の強化
 この三つである。この策はかなり強引な策であり、広郷は立て直しには成功したものの藩内に対立抗争を生み出すことになる。
 藩主島津斉興には3人の子がいた。一人は既に養子に出ていたので残りの二人が次期藩主の座を争うことになる。一人は正室の子で長男の斉彬、もう一人は側室お由羅の子久光である。斉彬は既に世継ぎと決まっており、彼自身進歩的で広い視野の持ち主であった。しかし、久光も時代を見る目が機敏といわれバイタリティーに溢れていた。また、お由羅も久光を藩主にしたいと思っており、必然的に斉彬派と久光派に分れてお家騒動が起きてしまう。それが、お由羅騒動(*2)と高崎くずれ(*3)である。その結果斉彬派の勢力は衰え久光が藩主の座に就くかに思われた。しかし、幕府進歩派の老中阿部正弘が斉興を強引に隠居させ、斉彬を藩主に就けるよう働きかける。阿部としては以前から交際もあり幕政改革において協力者になり得る斉彬を藩主にしたかったのだ。こうして1851年斉彬は薩摩藩藩主となる。

*1 明治維新において薩摩藩そのものがなくなり支払いができなくなってしまうのだが、そこは明治政府に深く関与している薩摩藩。政府が立て替えている。
*2 斉彬を藩を危うくする存在として久光派に与していた広郷が、広郷を嫌う斉彬派の古参家老らの手によって自殺に追い込まれた事件。
*3 お由羅と久光の暗殺を謀った斉彬派の幹部が斉興の怒りを買い処分された事件。

3.斉彬の政治
 薩摩藩藩主となった斉彬は早速行動を開始する。鉄の存在を重要視した(*1)彼は理化学実験室とも言うべき花園製錬所、鉄を作り花園製錬所で開発された物を製作する集成館を設けた。そこでは、大砲などの軍事生産物、さらには農具や薩摩切子といったガラス製品などが開発された。また、斉彬は造士館という藩校を建て家臣に学問を勧め、時勢に合った行動をとるべきだとしている。こうした富国強兵策を斉彬が採ったのは倒幕を狙ってのものではない。彼が考えていたのは富国強兵策によって蓄えた武力を背景に幕政に参加し、幕府と天皇家を抱き込む公武合体である。その証拠に一族の娘の敬子(於一)(*2)を公家の近衛家に養子に出し13代将軍家定の正妻にしている。この結婚に際して斉彬の近臣(*3)として政治工作をとっていたのが西郷隆盛(*4)である。ただ、この結婚は外戚になるというよりは(*5)大奥に自分の勢力を築くことで先に起こるであろう将軍後継者争いを有利にしようという考えからであるという方が正しいようだ。
 そして1857年ごろから将軍後継者争いが起きる。斉彬は水戸の徳川斉昭や越前の松平慶永、老中阿部正弘(ただし、1857年に死去)らと英明で知られる一橋家の慶喜を推す。彦根藩主の井伊直弼(この年の4月に大老に就任)らは紀州の徳川慶福(後の家茂)を推し激しく対立する。
 さて翌年1858年は激しく様相が変わるので整理するために年表形式にまとめることにする。

6月  次期将軍に徳川慶福が決まる。
7月  斉彬急死(*6)。家定死去。
9月  日米修好通商条約締結。安政の大獄始まる。
12月 薩摩藩次期藩主斉彬の遺志で久光の子忠義に決まる。

 斉彬の死後、彼の父斉興が権力を取り戻し、斉彬の行った積極策は取りやめになり、薩摩藩は安政の大獄をまえにして一時の眠りにつく。薩摩藩が再び動き出すのは、斉興が死に久光が権力を手に入れてからのことである。

*1 彼の言葉に「鉄は人間に必要一日も欠くべからざる品なり」という言葉がある。
*2 後の天璋院篤姫。一橋慶喜擁立のために斉彬の手によって大奥に送り込まれる。その目的は次期将軍に徳川慶福が決まり、斉彬の急死で失われる。しかし、その後も家茂を傳育し、鳥羽・伏見の戦いに際しては徳川家救済に尽力。1883年48歳で没。悲劇のヒロインだがそれだけではない。人としての強さを感じる。
*3 外戚になり権力をつかむのは歴史の常道。では、なぜそれを考えなかったのか。答は家定が虚弱体質で子供はとうてい作れそうになかったためである。
*4 西郷がついた役職は「庭方」。仕事の内容は文字通り庭掃除なのだが仕事の内容上法的手続なく主君と会えるため江戸時代当初は隠密、幕末は政治戦略家がよくこの役職についた。
*5 西郷は下級武士の出身である。斉彬が西郷を気にいっていたのは事実だ。しかし、お家騒動で多くの家臣を失っていたのも否めないだろう。
*6 一応は病死。ただし、毒殺の説あり。

4.久光の政治
 久光は前述の通り有能な人物である。だからこそ、斉彬と家督を争うことになるのだが、斉彬と家督を争ったということで彼は保守派であると思われていた。しかし彼は保守派などではなく兄とおなじ積極派であった。
 久光が行動を開始するのは父斉興が死に久光が権力を手に入れた1859年9月からである。まず彼は取りやめになっていた兄の事業を再開させ、富国強兵に乗り出す。1860年3月には桜田門で井伊が暗殺され、それが公武合体つまり皇女和宮の江戸降嫁(*1)をよぶ引き金になる。この和宮降嫁は1862年2月のことであるが、これと同時期久光は幕政改革を図るため出京する。(*2)ここで、もう一度はっきりしておきたいのは彼の出京はあくまで幕政改革を目的としていて間違えても討幕ではない。しかし、この久光の行動を討幕軍(*3)と勘違いしたグループがいた。京の急進派グループである。そして、討幕の意志などない久光と京の急進派グループは当然のごとく衝突する。それが寺田屋事件(*4)である。この寺田屋事件でうるさい急進派グループを一掃した久光は内勅を奉じて江戸に行く。そして、一気に幕政改革に成功するのだ。そして久光は意気揚々として帰国する、はずだったんだけどなあ。

*1 和宮。これまた悲劇の人である。ところで、彼女にはすでに婚約者がいてそれが後に江戸城攻撃の総大将となる有栖川宮熾仁親王であるが、このことは和宮降嫁の悲劇性を強調するものであるが有栖川のほうにそれほど思うものが有ったかは疑問だ。このころは一度も顔を合わせず結婚なんてよく有ることである。
*2 この時の久光の考えは松平慶永、一橋慶喜を幕府の重職につけ、公武合体路線の永久化を図ったものである。結果としては一橋慶喜が将軍後見職に、松平慶永は政事総裁職になり、薩摩など雄藩の発言力も増した。ところで、この出京に西郷は反対している。時節に合わないというのが理由だが結果論としては西郷が間違えたというベきなのだが、とにかく西郷と久光の仲は悪い。理由としてはお由羅の子の久光を西郷が許せなかったとか、後継者争いをした兄の近臣の西郷が憎かったなどといろいろあるが、個人的には目の前で「斉彬様に比べるとあなたはだめだ」言う奴を好きになれる人はいないと思うのだが。
*3 この時久光が引き連れた人数は約1,000人。鳥羽伏見で長州が引き連れた人数に匹敵することを考えると、討幕軍と勘違いするのも分かる気も。しかし、久光にするとただ幕府に圧力をかけただけのことだったのだが。
*4 薩摩急進派の有馬新平らが久光の命で奈良原喜八郎らによって京都の寺田屋で殺害された事件。

5.薩摩方向転換
 目的を果たし薩摩に帰る久光。ところが、そんな彼をとんでもない事件が襲う、いや事件を起こすというべきか。1862年8月21日生麦事件である。この時幕府は事後処理において久光の帰国差し止めさえできず、処理能力のなさを露呈するのだが、とにもかくにも襲われた側のイギリスは怒り薩摩の海に軍艦を向ける。1863年6月の薩英戦争である。この戦いにおいて薩摩はコテンパン(*1)に負け、藩上層部はこれまでの盲目的攘夷を捨てイギリスとの提携の道(*2)を進む。
 薩摩がイギリスとの提携を進んでいる間、同年八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は進発論が盛んになりついには久坂玄瑞ら長州勢かが京都一帯をとりまくという事態になる。禁門の変である。薩摩は初め日和見を決めこむが、長州の目的が八月十八日の政変の状態であることが分かり、一橋慶喜の命令が下ると京都の守りにつく。こうして禁門の変は長州の敗北で終わる。
 この後、長州征伐がはじまるが薩摩藩の指揮をとっていた西郷が降伏案(*3)を提示、戦闘なく長州征伐は終了する。

*1 イギリス側の死者7名。薩摩側は鹿児島の町を半分焼かれた。
*2 まず薩摩はイギリスに生麦事件の賠償金7万両(ただしこのお金は幕府から借り倒し)を支払った。そしてイギリスの枝術を輸入し始める。イギリス側も太平天国、セポイの乱からの教訓で強硬策を避ける。
*3 一、禁門の変の責任者の処分
   二、山口城破棄
   三、藩主父子の謹慎の三つが西郷の出したが降伏案。

6.薩長同盟
 ところで、薩摩と長州の仲は悪い。久光の公武合体運動の邪魔を長州がしてからのようだが、「薩賊会姦」というぐらい長州は薩摩を嫌っていた。そんな二つの藩がどこで同盟を結ぶことになったのか。
 薩摩藩とくに大久保、西郷が討幕を意識するのは、長州征伐において幕臣勝海舟に幕府はもうだめといわれてから辺りとされている。そこで土佐の坂本龍馬のとりなしで討幕を目的とした薩長同盟をむすぶ(異説も有るがここは定説に従う)。1886年1月のことである。  この間の1885年には第二次長州征伐が起き見事に失敗している。薩摩の不戦、士気武装の違いが勝敗を分けた。
 この先は、薩摩は討幕へと進んでいく。

7.まとめ
 このレポートにおいての主題は薩摩藩が禁門の変において長州を裏切ったかということである。結論を言うと裏切りはない。もともと、仲の悪かった二藩が討幕という目的のために結託したというべきだろう。それでは薩摩藩には裏切りはなかったのだろうか。少なくとも、薩長同盟後の薩摩の事実的指導者と言っていい西郷・大久保に裏切られたと思っている人物がいる。島律久光その人である。彼は、江戸幕府の打倒には賛成していたが、幕藩体制を消滅させることは当然思いもしなかった。幕藩体制においてかなり上の方に位置する立場としては当然というべきだろう。では、久光にそう思われていた二人はどう考えていたのか。一言で言うと久光の態度に困惑していた。つまり、彼らは藩という単位から日本という国という単位への時代の変化をはっきり認識していて、明治維新はそこから導き出された彼らの当然の結論である。その時代の変化に久光がついていくことができなかった。これを裏切りと呼んでよいものかどうかは甚だ疑問である。基本構想の一致が見いだせない以上、両者の決別は必然的なものであるといってよい。幕藩体制という制度を捨てなかった久光と捨てた大久保・西郷。両者が離れていくのは当然で裏切りには該当しないと私自身は思う。ただ大久保と西郷にも認識の違いが存在し、それが後の西南戦争を生むことになる。

参考資料
「西郷隆盛と大久保利通」幕末・維新史研究会編 リクルート出版
「組織のためにどう動く」童門冬二著 同文書院

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