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薬子の変

byジュリー
 薬子の変は大同5年(810年)6月に起こった事件である。この事件はわずか6日で終わった事件であるが、後世、大変大きな影響を与えた事件である。尚、このレポート作成には「大系日本の歴史3 古代の国家の歩み」吉田孝著 小学館刊と、「日本の歴史5 平安建都」瀧浪貞子著 集英社刊のふたつの本を参考にした。
     1 事件の芽の発生
 さて事件の当事者の一人平城上皇は即位前は安殿親王(あてしんのうと読む)といって、乳、でなくて父桓武天皇の死によって皇位を継いだ。この人はどうも精神病の気があったらしく(どうも自律神経失調症、つまりノイローゼだったらしい)さらにその病は早良観王の祟りではないか、などと言われ一時大騒ぎになった。桓武天皇の崩御の時も気絶したり、その後一週間も粥だけで暮らし続けたりした。こういう所からも彼の異常な性格が伺える。
 しかし天皇に即位した平城天皇は、改革の理想に燃える人で、行政改革を断行し冗費を節減、民情視察の為、観察使なる役職を各地方に派遣しその報告を国政に役立てるなどした。(今時の政治家に爪の垢を煎じて飲ませたいと思うのは私だけだろうか?)しかしながら天皇は日頃から嫌っていた伊予親王とその母親に対して謀反の罪をでっちあげ自殺に追い込んでしまう。そのことを諌められた天皇は逆上して精神病を再発し、結局弟の神野親王(後の嵯峨天皇)に譲位する。809年4月のことであった。
 薬子の変の中心人物、藤原薬子は長岡京建設の中心人物藤原種継の娘である。薬子の属する藤原式家は藤原広嗣の乱で衰退したが、広嗣の弟の百川(ももかわと読む)の代にうまく天皇にとりいって勢力をもりかえし、藤治、おおっと間違えた、当時全盛を誇っていた。薬子は自分の娘が安殿親王の後宮に入ったのが縁で彼女自身も籠を受けるようになった。このことを知った桓武天皇は、薬子を追放してしまう。しかし桓武天皇の死後平城天皇の尚侍(なしのかみと読む)となり返り咲きを果たす。そして平城天皇退位の後にはますます上皇の寵愛を受けるようになっていった。この薬子は史書によると平城にあることないこといろいろ吹きこみ、また平城の言葉ではないのに勝手に、平城の言葉と称したりしていた。こんな風だったのにもかかわらず平城は薬子に心を許したとある。誇張があるにしても平城が薬子に心を奪われていたことは確かである。

     2 薬子の変の勃発と経過
 平城上皇は退位後病気を治療する為あちこち場所を移った後、平城京におちついている。この為早速嵯峨天皇はかずかずの上皇に必要な設備を造らせている。ところがさらに一部の公卿や役所までが平城京に移ってしまい、まるで朝廷がふたつ存在するみたいになった。いかに上皇は天皇を後見してきたという伝統があるとはいえ、否だからこそ政治が混乱状態に陥ってしまった。そこで嵯峨天皇ほ蔵人頭を設置し機密が上皇方に漏れないようにした。
 この蔵人頭設置により、今まで天皇と臣下との取次をやっていた尚侍は実権を奪われてしまった。こうなると黙っていないのが上皇方で、6月28日に参議を復活させ(観察使設置の際に参議は廃止されていた)薬子の兄で北陸道観察使の藤原仲成を参議によこすべりさせて、彼を中央政界に送り込むことにより天皇方の動きをスパイさせた。そして9月6日平城上皇は「平城京に都を還すべし」と、突然平城京への還都を命令した。これに対して天皇方は、早速造平城宮使を任命し、上皇の命令に従うようにみせかけて、上手く上皇方の動きを封じその4日後には各地の関所を固め、まだ平安京でうろうろしていた仲成を逮捕し、次の日に処刑した。ちなみにこの後都では保元の乱まで三百五十年間死刑は途絶えている。
 このような展開に怒り狂った平城上皇と薬子は大軍を率いて平安京に攻め上ぼり、嵯峨天皇を捕らえて首をはね、上皇が天皇に復辟し薬子も権勢を取り戻した・・・と、いきたいとこだが史実はまったく違った展開になった。上皇と薬子は、今抵抗しても勝つ見込みなし、とみて東国に逃れて再起を図るが天皇方の大軍に阻まれて失敗し、平城上皇は平城京に連れ戻されて落飾(出家のこと)し、薬子は最早これまでと自殺した。こうして薬子の変はあっけなく終息した。

     3 事件の歴史に与えた影響
 薬子の変により、「反乱」の首謀者をだした藤原式家は当然のことながら衰退していった。以後藤原氏の中心は北家に移っていく。
 また皮肉にもこの事件を経ることによって平安京は永遠の都となり(なぜなら嵯峨天皇が「先帝(桓武天皇)の万代宮と定め賜へる平安京」と宣言したから)、明治維新によってなしくずしで首都が東京に移るまで、少なくとも形式上は、そして観念上は日本の首都でありつづけた。
 またこの事件によって上皇に対抗する為に設置された蔵人頭はその後も置かれ、以後天皇側近として若手貴族の登竜門となり、尚侍は政冶権力を失う。
 また上皇の勝手気儘な行動を抑制する為に、後院という上皇の御所が京のそれも大内裏の近くに設けられ、これ以後上皇が勝手な行動にでることが出来ないようにした。まさにこの薬子の変を経ることによって奈東時代から平安時代になったといっても過言ではないのである。
 ちなみにこの「反乱」の首謀者のひとりである上皇は隠岐へ流された・・・のは承久の変で薬子の変は違った。平城上皇はその後も平城京に住み続け、その後いつのまにか嵯峨天皇との仲も回復し、ちっ、つまらんな・・・824年7月7日に5l歳でその生涯を終えた。ここにも平安時代的な傾向、即ち、皇位争奪の敗者を殺害するのではなく落飾で済ますというもの、が伺える。

あとがき
 この事件を調べていくとこの事件は一般の裏切りとは違い、どちらかが何らかの意図があり相手を打倒してその意図を達成する為に行動を起こしたのではなく、双方の誤解、あるいは感情の擦れ違いから起こった不幸な事故のようなもの、と思えてきた。もっとも世の多くの裏切り事件も案外この類いかもしれないが・・・

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