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源平騒乱の仕掛け人・以仁王、もとい源頼政
著者・ぢ 協力・あきみつ
時代背景
1086年、白河上皇が院政(*1)をはじめて以来、皇室・摂関家の内部抗争が絶えず、鳥羽法皇・後白河天皇と崇徳上皇との不和から摂関家である藤原氏の内部対立を招き、1156年(保元元)七月二日、鳥羽法皇の死をきっかけとして対立が顕著になり、都での紛争へと発展する。崇徳上皇と藤原頼長は源為義・為朝・平忠正を味方に付け、戦闘を開始。後白河天皇と関白藤原忠通は源義朝・義康・平清盛を招いて崇徳上皇を討ち、天皇側の勝利に終わった。これがいわゆる保元の乱である。
この乱の後、源義朝と平清盛は次第に対立していき、1159年(平治元)義朝は後白河上皇の近臣・藤原信頼と手を結んで挙兵し、清盛と親しい藤原通憲(信西)を殺害、内裏を占拠するが清盛によって鎮圧、義朝・信頼は共に殺害され、伊豆に流された義朝の子・頼朝を除く源氏の嫡流は途絶えることとなった(平治の乱)。
この乱をきっかけに、武士の中央政界進出の道が一気に開けたのである。1167年、清盛は従一位太政大臣へと昇進。娘の徳子を高倉天皇の中宮に入れ、安徳天皇の外祖父となり、平氏一門の隆盛を迎える。その一方、後白河天皇の近臣たちは打倒平氏を企てるのだった。
源平騒乱の仕掛け人・以仁王、もとい源頼政
平氏を滅ぼしたのは「源頼朝」ということは誰もが知っていることだが、その頼朝が打倒平氏に立ち上がったきっかけは?と聞かれて、「以仁王の乱」と即答できる人となるとかなり減るだろう。また、以仁王に力を貸した源氏の生き残りは?となると「源頼政」と言える人はあなたのまわりに、はたして何人いるだろう(たぶん、たくさんいる)。
源頼政とはどんな人だったのだろうか。簡単に言えば「源氏の生き残りとしてただ一人、平氏政権の中で力をつけた人」といったところか。彼は源氏の生き残りであるにもかかわらず、平清盛から信頼を得て「三位」(*2)という当時の武士としては異例の高い位についた人物である。三位についた後、打倒平氏政権をもくろんで以仁王と謀って挙兵するが、失敗に終わって討ち死にした。
これだけの説明だけだと、頼政という人は「平氏に取り入って力をつけ、源氏再興の為に反乱を起こした奴」「源氏が平氏に送り込んだスパイ?」と想像してしまうかもしれない。ところが・・・。とにかくまずは「源頼政」という人物について、時代背景を交えながらみていくことにしょう。
源頼政(立身出世編)
頼政が生まれたのは、堀河天皇の長治元年(1104)、白河院政期である。父・源仲政、母・藤原友実。母・友実は藤原南家の流れを組み、学者・歌人の多い系統である。父・仲政は生没不詳、ただし頼政33歳ごろまでは存在している。頼政が生まれたこの時代は、平氏と源氏の中央派諸勢力の功名争いの時代であった。平正盛・忠盛二代の活動と成功により、中央派の先進勢力であった頼光とその子孫の仲政、その子頼政は平氏の進出にけおとされてしまう。仲政は死の数年前に彼が築いた財産を頼政に譲っている。それにより、頼政は公家・貴族とのつながり、宮廷・政府での地位・勢力、地方における所領・郎党つまり武士団といった勢力基盤を受け継いだ。
平家の隆盛
平治の乱後、二条天皇は父・後白河院に対して院政の廃止を強く主張し、両者は鋭く対立していた。清盛はその両者の調停役をかう一方、平氏の立場強化に余念がなかった。六条天皇即位の翌年清盛は内大臣になり、その翌年には太政大臣に昇進し平氏基盤を不動のものにする。その後、子孫を次々に摂関家へ嫁がせ、また婿として迎え、娘徳子を中宮にする。1168年、高倉天皇が即位すると、同年清盛は太政大臣を辞任し、平氏の執権体制へと転換を進める。清盛が政治の中枢を子孫一族で固めると、公家・貴族の不満は次第に積もり、また清盛もそれまでの協力的な態度を一変させる。そして1177年、後白河法皇の近臣藤原成親・師光、僧俊寛らが京都の鹿ケ谷で平氏打側を企てるが未然に発覚して失敗し(鹿ケ谷事件)、清盛と院との対立が表面化した。これを機に、清盛は彼の出家の戒師である明雲に手を借りて、事件と関わったとされる当時の一大勢力、比叡山延暦寺を手中に収める。
1179年6月、故関白藤原基実の妻であった清盛の娘盛子が亡くなった際、後白河法皇は盛子が相続した摂関家領などを清盛の意に反して摂政藤原基房に渡し、さらに同年、死亡した平重盛の領知(*6)を没収した。こうした事情のもつれからついに、同年11月19日、清盛は法皇を鳥羽に幽閉して院政を停止させ、朝廷内の権力を手中にし、翌々年に外孫の安徳天皇が即位することによって清盛は、武家・朝廷・寺社の三権力を握り、平氏権力は絶頂期に達するのである。
そして翌年4月9日、こうした事件を背に打倒平氏の気運が高まり、以仁王の令旨が日本各地に潜んでいた源氏へと発せられ、源平合戦の火蓋が切られることになる。
それでは平治の乱以降の頼政の足取りを追ってみよう。
頼政25歳(1130年)のとき、白河院崩御。それ以後、保元の乱まで29年間鳥羽院に仕える。1136年、蔵入(*3)に補せられ、従五位下に叙せられる。鳥羽院の寵臣、藤原家成の歌合に参列。院の寵姫、美福門院の昇殿をゆるされる。1154年、兵庫頭に任せられ、長男の仲綱は蔵人に任命されている。かくして、頼政は平氏に一歩遅れをとったものの、中央における地位を確立していったのである。
保元の乱(頼政のジレンマ)
保元の乱については時代背景で述べたとうりであるが、もう一度確認をしてみよう。
烏羽法皇・後白河天皇と崇徳上皇との不和から摂関家である藤原氏の内部対立を招き、1156年(保元元)七月二日、鳥羽法皇の死をきっかけとして対立が顕著になり、都での紛争へと発展する。崇徳上皇と藤原頼長は源為義・為朝・平忠正を味方に付け、戦闘を開始。後白河天皇と関白藤原忠通は源義朝・義康・平清盛を招いて崇徳上皇を討ち、天皇側の勝利に終わった。これがいわゆる保元の乱である。
鳥羽法皇に仕えていた頼政は当然、後白河天皇側につくことになる。合戦の時に頼政は予備隊として戦線に投入されている。合戦は後白河天皇側の勝利に終わり、その彼の戦功の賞において「平家物語」は頼政について「保元の合戦のとき、御方にて先駆けたりしかどもさせる賞にもあづからず」と述べていることから、頼政はこれといった活躍をしなかったようである。とにもかくにも頼政は勝利者側に立つ。
乱の後、中央・地方の諸勢力は源義朝と平清盛の二大陣営へと整理・統合されていく。その際、関東に拠点をおく義朝と中央に勢力を持つ清盛、つまり地方派武将と中央政界派との対照が明瞭に浮かび上がり、両者の対立が生まれてくる。そんな中、頼政は第三勢力として位置することになる。頼政としては、中央政界派で最も有力な清盛側につくのが得策であると考えられるが、父・仲政以来の「平氏」ヘの反発と「源氏」の名をもつ義朝への親近感があるという、ジレンマ(板挟み)の境遇であったと思われる。しかしながら保元の乱にもみられるように、現実としては源氏と平氏が名のみによって必ずしも対立していたわけではなく、利害関係に焦点がおかれ、それによって源氏・平氏の流れを組むものが集合・離散していたという側面を念頭においてほしい。
保元の乱の翌年、頼政の兄弟であり、交流の深かった頼信が配流のため護送する途中で自殺するという悲しい出来事が起きている。原因は明らかではなく、保元の乱とも関係がないとおもわれ、また、頼政の反応も不明であるが、頼政にとっては平氏に対する感情において何らかのしこりとなったはずである。
平治の乱(頼政の裏切り?)
1159年(平治元)、清盛の熊野詣(*4)の留守をねらって源義朝が挙兵。頼政は始めは義朝陣営に加わっていたが、戦闘開始以前に去り、独自の行動をとる。理由は不明であるが、結果論から推測すると、もともと第三勢力である頼政は勢力の強い清盛についたほうが得策であると考えていて、義朝の力では清盛を討つことができないと予測していたのではないだろうか。
12月27日、終日両軍の死闘は続けられるがついに源軍は平軍を六披羅(*5)へと追い込む。「平治物語」によると、その途中、六条河原に頼政が数百騎で控えていたのを源義平が攻撃し「有利なほうにつこうと観望するもの」と頼政を罵ったとしている。
結局、頼政は六波羅軍に加勢し、清盛側の勝利を迎える。ここでも保元の乱同様に頼政の恩賞は不明であるが、平氏の傘下に組み入れられたことは間違いない。そして頼政は平氏政権の中で「源氏」の名を持つものとして権力を蓄えていくのである。
保元三年、頼政は院の昇殿(*7)を許されたが、内昇殿は許されていなかった。二条天皇のときにはついに許されず、一方で平氏の若者達が次々と昇殿していく姿を見て、頼政はその遺憾の意と源氏の名を持つ自身の不運を嘆く歌をいくつも詠んでいる。次の六条天皇のときについに内の昇殿を許されている。頼政は60歳に達していた。この2か月前に正五位下に昇進している。翌月、五位から従四位下に昇進した。この時期は頼政にとって最も平穏安息であったといえ、嫡男の仲綱は五位にいたり、隠岐守・伊豆守を歴任、養子の兼綱も従五位上にいたっている。この二人は頼政と共に内裏・院の警護役を勤めている事から、院の頼政親子に対する信頼はかなりあったとみられる。
晩年の頼政は公事よりも和歌に没頭する日々がつづく。宮廷人との交流も深く、歌の上手としてその地位も確固たるものがあり、人々からは敬愛の念を持って接しられていたことは当時の歌集から伺える。病気がちになり、仲綱らに職を譲ると、頼政は念仏信仰の道を歩む。それまでの数々の苦境を乗り越え、平穏の日々を送る彼にとって残す願いは、子孫の繁栄と官僚としての昇進であったろう。四位であった頼政は公卿(*8)である三位を望むようになる。
治承二年(1178)ついにその願いがかない、頼政は三位に昇進。武士であり、源氏の姓をもつ頼政が公卿になったことは異例の珍事であったが、それは清盛の力であった事は言うまでもない。平治の乱の際、頼政が義朝軍を迎え討たなかったら今日の清盛はあり得なかったろうし、その後20年間の忠実な態度を考えれば、三位という位を与える事は清盛にしてみれば当然の事であったろう。ともかく、こうして頼政は平氏からの信頼の証しを得たわけである。
翌年の治承三年(1179)十一月二十八日、政界に思い残す所のなくなった頼政は出家に踏み切る。彼の病が重くなったという事が理由に挙げられようが、注目すべき点は、同年十一月十四日に後白河法皇幽閉事件が起きており、二十五日には以仁王の領知の常興寺を天台座主明雲の領知にしていることである。もし、ここで頼政が没していれば彼は一歌人として名を残すにとどまったであろうが、運命とはそうはいかないものであった。
以仁王の乱、もとい源頼政の乱
1179年(治承三年)後白河法皇との対立を深めた清盛は、法皇を幽閉して政治の実権を奪い、80年清盛は孫の安徳天皇を即位させる。法皇の皇子の一人である以仁王は安徳天皇の正当性を認めず、源頼政とはかって挙兵し、平氏を倒そうとした。以仁王の挙兵は失敗したが、挙兵を呼び掛けた王の令旨を受けた、源頼朝・義仲らが挙兵、各地の源氏が兵を起こすきっかけとなる。
と、教科書的に書けば、以仁王の乱はたったこれだけの出来事である。しかし、これまで見てきたように頼政は地位も安定して70を過ぎ、世を離れ老後の静かな生活に入っている点からすると、出家した翌年にいきなり打倒平氏に立ち上がるという行動はあまりに不可解である。その解決にあたっては、まず以仁王についてみてゆかねばならない。
以仁王は後白河院の第二皇子であった。30歳で挙兵するまでの間、彼が何をしていたかは不明であるが、平氏の圧政のもとでそれに対する不満を募らせていたであろうと思われる。以仁王は二条天皇を除く他の院の皇子同様、僧籍にいれられるが、十五歳のとき元服してそののち寺の知行を掌握するが先に述べたように治承三年十一月二十五日に取り上げられてしまう。28歳のとき(治承二年)、清盛の娘で高倉天皇の中宮である徳子に言仁親王(安徳天皇)が誕生して皇太子となったことから、彼の前途はふさがれてしまった。
こうしたいきさつから、以仁王は平氏に対して相当の不満を抱いていたようで、彼の不満が頂点に達するのは父・後白河法皇幽閉事件にほかならないだろう。
こうしてみると、以仁王と頼政との接点が見当たらないが、一説によれば、王の居所と頼政の邸とが近くにあったため接近しやすかったのではないかとしている。その他考えられる事は、以仁王と六条天皇・二条天皇をのぞく他の皇子達はみな僧籍に入っているため、頼政が反乱の主役に王を選んだことは当然といえば当然だったことが挙げられる。次に頼政が挙兵をする動機は何であったかみてみる。
頼政挙兵の原因?
嫡男仲綱は一頭の名馬を所有していた。それを平宗盛が強引に奪い取ろうとしたため、仲綱は父頼政に相談したところ、頼政は馬一頭ぐらいくれてやれと言ったので、仲綱はしぶしぶ馬を手放した。宗盛は喜びつつも仲綱の態度が気に入らず、馬に「仲綱」の烙印を押して乗り回すことにより、彼を侮辱した気分に浸った。これを耳にした頼政は怒り爆発、源氏の面子にかけて立ち上がった、と「平家物語」は言っている。なんだか些細な動機のようであるが、このほかに動機の書かれている書物は残っていないようである。しかしながら他に考えられる理由として、平氏政権は中央政界を把握したのみにとどまっており、地方においては平氏をたおそうとする気運が高まりつつあった(奥州藤原氏、伊豆の頼朝、木曽の義仲など)、反平氏政権の寺社勢力の協力を得る事が可能だった・清盛は福原遷都に力をいれたため京都を離れがちだった、などが考えられるが何と言ってもやはり頼政は清盛から絶対的な信頼を得ており、清盛にしてみればよもや頼政が裏切るとは思ってもいなかった点に、頼政反乱の理由があるのではないだろうか。
かくして以仁王の乱は勃発するのである。
以仁王の乱
頼政が立てた策略は、まず京に近い源氏ゆかりの勢力に呼び掛け、その後尾張・信濃以東の勢力をなだれ込ませる。その間、三井寺に拠点をおいて南都(奈良)の反平氏勢力に呼び掛け、その一つでもある興福寺の僧兵の力を借りる、とおおまかに言えばこんなぐあいである。それでは順を追って以仁王の乱をみていこう。
文献によって挙兵の日付は様々であるが、最も早い日付は治承四年(1180)四月九日である。この日に王の今旨が下され打倒平氏の幕開けとなる(この日に合戦が行われたわけではない)。六波羅当局がこの挙兵を知り、以仁王の謀略が明かるみに出たのは十五日の事である。同日、王の邸と資金源である八条院が差し押さえられる。すでに王は頼政の通報により三井寺に逃れていた。十六日、以仁王は源以光と賜姓改名して謀反人として平氏から追われる身となる。福原に出向いていた清盛が乱を知ったのもこの日である。以仁王の弟である三井寺の八条宮円恵法親王は事件の解決を望んで王の所在を通報。直ちに平氏軍50騎ばかりがやってきたが、三井寺の大衆の意志は固く、平氏軍を追い払い、八条宮円恵法親王の思惑は無駄になる。十八日、十九日に朝廷の使者が来て説得にあたっているがこれも無駄に終わっている。同時に、山門ヘ王に力を貸してはならないとの通達をしている。三井寺に終結した反平氏勢力は、延暦寺・興福寺に支援を呼び掛ける。清盛の工作が功を為し延暦寺は支援しないと決定、以前から平氏と対立していた興福寺は協力を決定する。二十一日になって六波羅はようやく武力討伐を決定する。総大将平宗盛以下、頼盛・教盛・経盛・知盛・維盛・資盛・清経・重衡ら平氏一門に頼政が加えられた。つまり、頼政はこの時はまだ隠密裏に行動していたのである。二十二日、翌日に討伐軍出兵というぎりぎりまで平氏を欺いた頼政は自宅を焼き払い、嫡男仲綱・兼綱らを率いて三井寺に入る。その兵力はわずか50騎程であったとされる。二十三日、延暦寺の僧兵が王を支援・南都の大衆が蜂起、という未確認情報により京の町は一時騒然となり、平氏軍は発動できずにいた。同日暁、王は興福寺へ出発、落ち延びたのか、兵力移動かはさだかではない。この時、三井寺では寺内の反対勢力が会議を長引かせて、頼政軍の六波羅夜討ちのチャンスを失わせるというハプニングがおきている。
以仁王・頼政の最期
二十六日、平家は必死の捜索により、以仁王と頼政が南都に逃げたという情報をつかむ。同日、平氏軍は南都に向かう王の追撃を開始。頼政軍は字治平等院に本陣をおき、宇治橋に陣を構えてこれを迎え撃つ。「平家物語」によると平氏軍は二万八千。圧倒的な兵力を前に抵抗空しく、頼政・仲綱・兼綱らは討死、もしくは自害した。この時の頼政一族の勇猛さは「八幡太郎の如く」であったという。字治川で激戦が行われている間に王は南都へと急いだが、字治川の戦には加わらず王の追撃をしてきた飛騨守藤原景家に、30騎ばかりの以仁王軍は敢え無く討ち取られる。南都では七千の大衆が王を迎えるために出動していたが、王の討死をきいて引き返したという。文献によっては王の消息が不明なものもあるが、ともかく、以仁王・頼政の反乱は失敗に終わったのである。
ただし、以仁王の出した「令旨」は王の死後もその効力を有し、平氏打倒が為されたのはいうまでもないだろう。
〜おわりに〜
頼政の行為は裏切りといえるのだろうか。文中にも述べたが、当時の情勢としては源氏・平氏という姓だけで必ずしも対立していなかったという点を考えると、頼政は保身という行為をしたにすぎないように思える。しかし、平治の乱においては敗者側からは卑怯者と罵られ、以仁王の乱においては自らが首謀者になって清盛を裏切っているが、頼政が中間勢力として位置していたことで、彼を渦中の渦へと巻き込んでいったのではないだろうか。中間勢力であれば、両陣営は味方に引き込もうと声を掛ける。そして、戦乱後には敗者から罵られる結果となる(私的意見にすぎない)。
頼政の行為は裏切りであったか否かを判断することは困難である。なぜなら彼の行動には不明な点が多く、また文献等も少ないためである。(著者の研究不足という点についてはご容赦願いたい)。ともかく、頼政が生きた時代において彼の行為は裏切りであると断定することはできないのではなかろうか。読者の方々、「裏切り」という自分自身の先入観を捨ててもう一度振り返ってみてはいかがだろう。
*1 天皇家の家長として院が政治を行うこと。院は「天地の君」と呼ばれた。
*2 →*7
*3 天皇や皇室の文書・道具の管理を行っていたが後に天皇の側近として仕え、詔勅の伝達・天皇への奏上も行うようになった。五位・六位。
*4 和歌山県の熊野の地にある熊野三社(熊野本宮大社・熊野速玉神社・熊野那智神社)ヘ参詣すること。熊野には、那智の滝や温泉がある。
*5 鴨川の東、五条通りから七条通りにかけての一帯の呼び名。平氏一族の邸宅が立ち並んでいた。
*6 平安時代においては、土地用益権を職と呼び、職の行使を知行といった。土地の所有権に知行が伴っている状態をさして「領地」という。
*7 清涼殿の「殿上の間」に昇ることを許されること。五位以上の選ばれた者と、六位の蔵人が許された。殿上人。昇殿を許されないものは「地下」と呼ばれ、殿上人とは社会的に大きな格差があった。
*8 朝廷に仕える高位の役人の総称。公・・・摂政・関白・大臣 卿・・・大納言・中納言・参議、その他三位以上のもの。
*9 皇后・皇子などの命令。以仁王は自らの命令を「勅」と称した。
参考文献:
多賀宗隼「源頼政」 吉川弘文館
河内祥輔「頼朝の時代」 平凡社
日本史三訂版 実教出版
教養の日本史 東京大学出版会
新選日本史図表 第一学習社
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