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劉邦と韓信  「国士無双」韓信

byドルアーガ

1.はじめに
 「国士無双」・「背水の陣」・「韓信の股くぐり」などで知られる韓信は、漢の高祖劉邦の覇業に少なからぬ貢献をし、三傑(他の二人は軍師の張良・漢の相国“宰相”となった蕭何“しょうか”)の一人に数えられ、「百万の軍を連ね、戦えば必ず勝ち攻めれば必ず城を取る、わしは韓信には及ばない」と劉邦に言わしめたほどの人物であった。
 実は韓信の事蹟も項羽と劉邦の争いも司馬遷の「史記」におさめられており「史記」の末尾にある『「太史公自序第七十」(司馬遷の自叙伝 他)において司馬遷は「楚軍が、わが漢の京・索の間(河南省)に迫った時、韓信は魏・趙を抜き、燕・斉を平定して、漢のために天下の三分の二を領有し、項籍(項羽の本名)を滅ぼした。よって淮陰候列伝(第三十二)を作る。」としている。
※淮陰候とは韓信のことである。
 先に挙げた張良・蕭何の三傑のうちの二人はそれぞれ「留侯世家第二十五」「蕭相国世家第二十三」にその事蹟をとどめている。にもかかわらず、なぜ韓信の事蹟は「世家」ではなく「列伝」に書かれているのであろうか。いや、はっきりといえば、なぜ彼は劉邦に反旗をひるがえし、天下を奪うことばかりか自らはおろか三族(父母・妻子・兄弟)の命さえ全うできなかったのか。それをこれから見ていきたい。

2.生いたちと劉邦の配下となるまで
 韓信は淮陰(江蘇省)出身であり、ただの庶民だった。貧乏で気ままに暮らしており、役人になろうにも推薦してもらえず、生活するために手に職をつけ商売することもできず、いつも他人の家に居候して、とかく人から嫌われていた。かつてしばしば淮陰の田舎の亭長(宿場の長)の家に数か月居候することがあり、亭長の妻がこれを嫌い、韓信の食事の用意をしなかった。すると韓信もその意味を悟って怒って交際を絶ってしまった。また韓信が河で釣りをしていると、数人の老婆が韓信が腹をすかしているのを見て飯を食べさせた。韓信は喜んで、その老婆に「私は将来きっとお婆さんにたんまり御恩返しをしよう」と言うと、老婆は「大の男が自分で食べていけないから、私はお前さんを憐れんで御飯をさしあげたまでのこと、何の御恩返しなどを望もう」と怒って言った。
 また淮陰の若者が韓信を馬鹿にし、「お前は図体が大きく、好んで刀剣を身に付けているが、ほんとうは臆病者だ」とののしり、さらに衆人の面前で「やい、殺せるものなら俺を殺してみよ。殺せないなら、俺の股の下をくぐれ」と侮辱した。すると韓信は、その若者をつくづく眺めてから、伏して腹這いになり、その股の下をくぐった。市中の人々は皆、韓信を臆病者と嘲った。これが「小事を忍び、将来の大事のために隠忍自重する」のたとえとして世に知られる「韓信の股くぐり」のエピソードである。

 け・ど・ね、はっきり言ってぐうたらで街のごろつきでしがない奴です。居候のくせに嫌われていると知ったら怒って出ていくわ、ぐうたらなくせに「将来きっと御恩返しする」などと出世払いの空手形に近いことを言うわで、老婆もあきれかえったでしょう。そんな彼を街の人々は知っていたからこそ、彼が「股くぐり」をしたとき笑ったのでしょう。そう、すくなくともこの頃の彼は「隠忍自重する」器量があったのかは、はなはだ疑問です。

 さて、世の中は秦の始皇帝の死後、陳勝・呉広らの農民による反乱によって再び戦乱の時代へと移り変わっていきました。各地で打倒秦の兵がたち、我らがぐうたら男<韓信>も、そんな挙兵した一人の項梁(項羽のおじ)の麾下に加わったが、まだ名を知られなかった。項梁が秦軍との戦いで敗死すると彼は今度は項羽に仕え、郎中(護衛官)に任じられ、しばしば策略を献じたが採用されなかった。
 やがて秦が項羽や劉邦などの群雄によって滅亡すると、次の覇権をにぎったのは項羽であり「西楚の覇王」を名乗った。ライバルの劉邦は辺境である漢中に封じられ、項羽に仕えていた韓信も高位にのぼ・・・らなかった。何を思ったのか、われらのぐうたら男は項羽のもとを去り劉邦のもとに走ったのである。

3.大将軍韓信
 韓信が項羽のもとを去ったのは、自分の献策が用いられなかったためである。彼が劉邦のもとに走ったのはおそらく劉邦が、部下の意見に耳を傾けるという点で他の諸侯より有名であったからに違いない。まあ、とにもかくにも劉邦の麾下に加わった韓信ではあったが、やはりまだ名を知られず、連敖(れんごう・接待係)という役職についただけであった。
 そのうち彼はある罪に連座して斬首の刑を言い渡され、すでに一味の十三人が斬られて、いよいよ彼の番になった。
 ついに我らが韓信の命も尽きるのか? いや、ここで死んだらただの人。彼が顔をあげると、た・ま・た・ま、劉邦の馬車の御者である夏侯嬰が目にはいったので彼は言った「王(劉邦)は天下の大業を成すのを望まれず、なにをむざむざ壮士を斬られるのか」。夏侯嬰はその言葉を[こんな奴には珍しい]と思い、またその面がまえを[立派な漢だ]として、罪を赦し斬ることをやめた。

 運のいい男、韓信。顔をあげたとき夏侯嬰がいなかったら彼はどうなったでしょうか。彼の両肩はこれから先、重い頭部の負担に耐える必要がなくなったでしょう。し・か・し、本当に運が良かったのは劉邦、なんでしょうがね。

 夏侯嬰は韓信と話し合ってみると大いに気にいったので劉邦に推薦したが、彼を治粟都尉(殼貨を司る属官)に任命したのみで、高く評価しなかった。しかし彼としばしば語り合った蕭何は、彼をまれに見る人物と評価した。
 劉邦は封地となった漢中へ行くことになったが、中原(関中の東)より遠く離れたこの土地は劉邦の将兵にとっては地の果てと同じようなものだった。そのため兵士はもとより諸将の中にも軍中から逃亡するものが数十人あった。われらが韓信も蕭何らがたびたび推薦してくれたにもかかわらず一向に登用されなかったので、やはり逃亡した。

 項羽のもとを去り、今また劉邦のもとを去ったわれらがこらえしょうのない韓信・・・。きみはいったいどこへいくのか。

 そのころ蕭何は韓信が逃げたと聞くと、劉邦に断りもせず自ら韓信の後を追った。ある人が劉邦に「蕭何が逃げました」と告げたので、劉邦は大いに怒るとともに左右の手を失ったかのように落胆した。一、二日後に蕭何が帰ってくると、劉邦は怒りつつも喜び、喜びつつも、ののしって言った。
「逃げるとはどうしたことだ」
「わたくしは逃げたのではありません。逃げた者を追ったのです」
「誰を追ったのか?」
蕭何が「韓信です」と言うと劉邦は怒って言った。
「諸将は数十人も逃げたのに、おまえは誰も追ったことなどなかった。韓信を追ったというのは嘘であろう」
「諸将のような輩はいくらでも得ることはできますが、韓信は天下第一の国士、比類なき人物であります(国士無双)。王(劉邦)がいつまでも漢中の王で満足されるのなら韓信を用いるには及びませんが、天下を争うおつもりなら韓信以外に事を謀るものはおりません。王がどちらの道を選ぶか、今はこれだけが問題です」
「東に進んで天下を争うしかない。こんなところにいつまでもいられるか」
「何としても天下を争うおつもりなら、どうしても韓信を用いなければなりません。韓信を用いられるなら韓信は留まるでしょうが、用いられないなら逃げるでしよう」
「おまえに免じて彼を将軍にしよう」
「将軍くらいでは韓信は留まらないでしょう」
「それならば大将軍(最高司会官)にしよう」
「それならばよいでしょう」

 こうして韓信は漢軍(劉邦)の大将軍となった。
彼がもう少し冷静ならば、これが異例の人事であり、諸将のねたみも買いかねないということを認識し、謙虚に物事に接しただろう。そうでなかったことは彼が劉邦と語り合った際の「王のことばによって王に問うて言った」という司馬遷の記述によって明らかである。

 劉邦は韓信と語り合って大いに喜び、韓信を手に入れることが遅かった事を後悔し、韓信の献策を採用した。

4.楚 漢 斉 幻の天下三分
 大将軍となった韓信は別動隊を率いて魏・代を平定し、趙との戦いで「背水の陣」などを用いてこれを破った。かれはこの時、趙の軍師であった広武君李左車を自分の軍師としてむかえ、その献策を用いて燕を平定した。

 韓信は本質的には戦術家である。彼は戦略面をカバーするために広武君を用いた。本来用いられるべき男が・・・。将が王の命令に従うのは絶対である。この行為は韓信が一人で行動したに等しい。彼が無意識のうちに・・・。
 歴史上数多く見られるように、主君という存在はしばしば自らの地位に常人では想像もつかないほど執着し、またそれによって家臣はささいな事でその忠誠を疑われるものである。そしてそれはまた劉邦にしても例外ではなかったのである。
 そして彼の前にもう一人の男が現れる。策士、かい通である。

 斉を平定し、斉の救援に来た楚軍をも破った韓信は使者を劉邦に送って、「斉の仮の王にしてほしい」と願い出た。当時劉邦は楚軍に包囲され大苦戦の中にあり、この使者が到着すると劉邦は、
「わしはここで苦戦し、朝夕にお前がきて助けてくれるのを待っているのに、お前は自立して王になろうというのか」
と、ののしった。傍らにいた軍師の張良と陳平は劉邦の足を踏んで合図し、耳に口を寄せてささやいた。
「漢の形勢は、いま不利です。こんな時に韓信が王になるのを禁じる事ができましょうか。彼の願うまま王にしてやり、漢のために韓信に斉を守らせることがよろしいと思います。さもなければ反乱を起こすかも知れません」
劉邦もそうだと悟り、 「立派な漢(おとこ)が諸侯を平定したからには真の王となるべきである。どうして仮の王になろうなどというケチなことを言うのか」
と使者に言った。

 韓信はこの時自分の申し出た事がどんな結果に結び付くのかを考えなかったに違いない。いやあるいはそんなことに気付きもしなかったのか・・・。いずれにせよ劉邦が苦戦している時に韓信に対してどのような気持ちを抱くか。王になるということは劉邦と同列に位置するということであり(劉邦は漢中王)、それはまさに自立すること、主君に対する謀反を起こしたのと同じである。

 斉王となった韓信にかい通は説いた。 「二王(項羽と劉邦)の勝敗の運命はあなたが握っているのです。あなたが漢につけば漢が、楚につけば楚が勝つのです。二王を両立させて天下を三分し鼎(かなえ)の足のように三方に割拠するにこしたことはありません」
さらに、
「天が与える物を受け取らなければ、かえって罰を受け、時期が熟したのに断行しなければ、かえって禍(わざわい)を受ける」 と続けた。

 あるいはこれが韓信にとって千載一遇の好機であったのだろう。しかし韓信は劉邦の恩義に背くことはできないと断った。

 かい通は言った。
「あなたは自分と漢王が親密な関係にあると思って万世の功業を建てようと望んでおられますが、私は間違っていると思います。“武勇智略が主君をおそれさすほどの者は、その身が危うく、功業が天下を蓋うほどの者は、主君に褒められない”と聞いております。このようにあなたが主君をおそれさす力と、賞されない功業を抱いて楚に味方しても楚の人には信用されず、漢に味方しても漢の人には恐れはばかれるばかりでしょう。それではあなたはどうなされるおつもりですか」

 韓信は「よく考えてみよう」とかい通をさがらせた。 かい通は数日後ふたたび韓信に説いたが、韓信は漢に背くのが忍びなく躊躇した。そして自分の功労が大きいので、よもや漢王が斉を奪うことはあるまいと思い、ついにかい通の献策を聞き入れなかった。
 かい通は狂人を装って去った。二度と彼の前に来ることのなかった好機と共に。

 そのころ劉邦はついに反撃に転じ、韓信にも出兵を促した。しかし韓信は動こうとはせず、進退に窮した劉邦が恩賞の話をだしてはじめて出兵した。
 まもなく項羽は垓下で生涯最初で最後の敗北を喫し、楚漢の戦いはここに終結した。

 劉邦はすぐに韓信の軍を取り上げ、さらに斉から楚へ移し、楚王とした。

5.「狡兎死して良狗煮らる(こうとししてりょうくにらる)」
 韓信は密告により捕らえられようとしていた。高祖(劉邦)が韓信を捕らえるため楚に到着する頃、韓信は、兵を挙げて謀反しようかと思ったり、身に覚えがないので高祖に謁見しようと思ったり、会ったら捕らえられるかもしれないと迷った。
 結局彼は高祖に謁見し、その場で捕らえられた。
 韓信は言った、
「はたしてことわざのとおりであった。“狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓しまわれ、敵国破れて謀臣滅ぶ(すばやい兎がいなくなると良い犬は無用として殺され、高く飛ぶ鳥がいなくなると良い弓は用無しとしてしまわれ、敵対する国がなくなると忠臣が滅ぼされる)”とか。すでに天下が平定されたからには、わしが煮られるのも元より当然だろう」
 高祖は韓信をゆるし、楚王から位を下げて淮陰侯とした。しかし韓信は高祖が自分の才能を恐れ憎んでいることに気付き、この後常に病を口実にして参内せず、日夜高祖を恨んで過ごしていた。

 しばらく後、韓信は謀反を企てるが事は露見し、高祖の妻(呂后)によって捕らえられ斬られた。
 斬られるとき彼は言った。
「わたしはかい通の献策を用いなかったため、こうして婦女子に欺かれるに至ったのは残念だ。しかしこれも天命だろう」

 ・・・天命などではなかった。


参考文献(順不同)
歴史群像シリーズ32 「項羽と劉邦上巻」 学研
        33 「項羽と劉邦下巻」 学研
筑摩世界文學大系6 史記1 筑摩書房
        7 史記2 筑摩書房
現代視点 中国の群像 項羽 劉邦 旺文社
史記十表に見る 司馬遷の歴史観 伊藤徳男 平河出版
観賞 中国の古典 第七巻 史記・漢書 福島正 角川書店

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