ブルータスの子孫たちトップへ

薬子の変
〜嵯峨天皇を中心に〜  

by大僧正
桓武天皇が遷都した平安京は千年以上もの間、都であり続けたわけだが、天皇の死後数年にしてはやくも危機をむかえることになる。その危機が「薬子の変」であり、これをしずめたのが嵯峨天皇である。

1.平城天皇、嵯峨天皇の即位
 806年、桓武天皇がなくなると皇太子安殿親王が即位し、平城天皇となる。平城天皇は病弱であったが、父桓武天皇に引き続いて改革を推し進めていった。しかし、病気の悪化によって809年には皇太子で同母弟の神野親王に位を譲ったのである。これが嵯峨天皇である。

2.「二所朝廷」

 平城上皇は退位した後、当初は平安京にいたが、病をいやすためには生まれ故郷のほうがいいと思ったのか、平城旧京に移ることにしている。嵯峨天皇はあまり快く思わなかったかも知れないが、兄上皇は療養のために移るのだから平穏に暮らすだろうとも思ったようで、平城宮の造営に協力している。上皇は809年の暮れに平城宮に移っていった。
 ところが上皇にとりいっていた藤原式家(*1)の薬子とその兄仲成の策略によって公卿の一部と太政官の一部が平城京に移され、ここに二つの朝廷が生まれるのである(「二所朝廷」)。「二所朝廷」とは政府が二つすなわち命令系統が二つあるということである。それならば偉いほうの命令に従えばいいじゃないかと思うだろう。ところがこの時代の律令の規定によると、天皇と上皇(大上天皇)は全く同等とされているのである。

3.蔵入頭の設置
 810年3月、嵯峨天皇は蔵人頭(*2)を設置し、藤原北家(*3)の冬嗣らをこれに任命している。蔵人頭の設置は、平城天皇側に機密事項がもれないようにするためもあっただろうし、事が起こった時に迅速に対応するためもあっただろう。ちなみに冬嗣の蔵人頭就任が藤原北家が栄える基盤(*4)となったとされているが、嵯峨天皇の存在が大きかったせいか、冬嗣に野心があまりなかったせいかよく分からないが、冬嗣自身はあまり目立った動きはしていないようである。

4.「薬子の変」
 天皇側と上皇側は冷戦のような伏態であったが、この年の9月6日上皇が都を平城に遷すよう命令したことをきっかけに事態は急変する。薬子の変のはじまりである。天皇の対応は早いものであった。その日のうちに坂上田村麻呂や藤原冬嗣を造平城宮使に任じ平城宮に派遣している。もちろん平城宮を造営するために派遣したわけではなく、上皇側の動きを封じるためである。
 ここで坂上田村麻呂についてふれてみよう。坂上田村麻呂はよく知られているように、桓武天皇に命じられ征夷大将軍として蝦夷を征討した人物である。彼は平城上皇にも嵯峨天皇にも仕えたことがあり、おそらく上皇側も天皇側も武勇の誉れ高い田村麻呂を味方につけようとしただろう。しかし田村麻呂は天皇側についている。仲成・薬子のような謀略家が嫌いだったのかもしれないし、嵯峨天皇の彼に対する対応がうまかったからかもしれないが(*5)、やはり彼には大恩ある桓武天皇の建てた都を棄てようとする上皇側に手を貸すことなどできなかったのではないだろうかと思うのである。
 話を元に戻そう。9月10日、天皇は関を固めさせ、さらに平安京に来ていた仲成を捕え、11日には仲成を射殺させている。怒った上皇は兵を集め、東国に逃れようとしたが、すぐに天皇側の兵に行く手をふさがれたため脱出を断念し、平城宮に戻り出家した。そして薬子は服毒自殺したのである。9月12日のことであった。こうして薬子の変は終わった。天皇の対応が早かったとはいえ、あまりにもあっけない事件であったといえるだろう。
 だがこの事件の意義は大きい。この事件によって皮肉にも平安京が揺るぎない都となったのである。また、公的には天皇の立場が上皇のそれを上回るようになったのもこの事件によってである。そして注目すべきことは、この事件以後、都では1156年の保元の乱まで死刑が行われていないということである。

5.勝者嵯峨天皇
 嵯峨天皇は823年、皇太子で異母弟の大伴親王に位を譲った(淳和天皇)が、上皇となっても重要な国政には関与せず、上皇と天皇の関係は円満なものであった。公的な最高権力者が二人いるという事態を身をもって体験しているからであろう。
 一方で嵯峨上皇は皇室の家父長として死ぬまで君臨し続けた。子の数は50人に及び、彼の宮廷は華やかであったと思われる。また、上皇は唐風文化を好み、自身も三筆(*6)の一人として知られており、文化上の功績も大きい。
 嵯峨上皇は842年に亡くなったが、その直後に承和の変が起こっていることからみても、彼がいかに大きな権威をもっていたかが分かるのである。

6.まとめ
 平安京は桓武天皇がその生涯をかけてつくった壮大な都であり、一代の宮とするつもりではなかったのだろうから、その子である平城上皇はその意を解すべきだったのではないかと思う。平城還都は同じ桓武天皇の子嵯峨天皇によって阻止され、平安京は「万代宮」となったのである。

*1 藤原不比等の三男宇合を祖とする家。
*2 天皇側近で、機密文書の取扱いや、天皇と太政官の取次をする役所の長官。
*3 不比等の二男房前を祖とする家。
*4 冬嗣の子良房は人臣初の摂政になり、その子孫が摂関政治を行っていった。
*5 嵯峨天皇は、9月10日には田村麻呂を大納言(太政官のナンバー3)に任じている。
*6 平安初期に栄えた唐風の書道の名手。嵯峨天皇・空海・橘逸勢の3人をいう。


(参考文献)
岩波講座 日本通史 第5巻 古代4 岩波書店
日本の歴史5 平安建都 瀧浪貞子 集英社
平安京物語 村井康彦 小学館
坂上田村麻呂 高橋崇 吉川弘文館

ブルータスの子孫たちトップへ

このホームページのホストは GeoCitiesです無料ホームページをどうぞ