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源頼朝
byまゆみ嬢
頼朝は、久安3年(1147)4月、源氏の棟梁源義朝を父に、尾張国熱田神宮の宮司藤原季範の女を母として、熱田神宮にほどちかい旗屋の里に義朝の第3子として生まれた。義朝には7人の妻がいて、その中で最も家柄のよい頼朝の母を正室とし、3男の頼朝に嫡流にのみ着ることを許された鎧の「源太が産衣」、太刀として「髭切り」をあたえている。このような品々が長男や次男をおいて3男の頼朝にあたえられたということは、義朝の心中には頼朝を源氏の嫡流とみなす気持ちがあったと考えられる。実際、頼朝は後に幕府を確立するほどのちからをもつのである。
保元の乱の後、後白阿天皇とその近臣である藤原通憲(信西)が平清盛を重く用いたため、不満を抱いた源義朝は、1159(平冶元)年12月、藤原信頼とともに兵をあげ、通憲を殺して内裏を占領したが、清盛によって滅ぼされ、東国に落ちていき、その途中、尾張国の内海住(愛知県知多郡南知多町)の源氏累代の家人長田忠致の手にかかって殺されてしまう。頼朝は義朝達と逃げる途中にはぐれてしまっていたため、ひとり生き残ってしまうことになる。
そして、平家のものに生け捕りにされ京都の六波羅に送られた頼朝は、清盛の継母の池の禅尼(平頼盛の母)のはからいによって助命され、伊豆国蛭ガ小島に流される。この平治の乱のとき、頼朝わずか13歳で、伊豆に流されたのが14歳、それから20年間そこで暮らすこととなる。ここで頼朝が恵まれていたといえるところは、伊豆は遠流の国のうちでは京からもっとも近く、しかも父の義朝が根拠地としていた南関東に隣接しているところであった。西国土佐に流された弟希義とくらべてみるとあきらかである。「曽我物語」は、伊豆・相模両国の武士団の交流を描き、そのなかで一目おかれていた頼朝の存在に次のように触れている。
いざや、佐殿(頼朝)の、いつしか流人として、徒然にましますらん、−夜宿直申して、なぐさめたてまつり、後日の奉公に申さん。
これは、両国の武士が伊豆の伊東に集まり、頼朝に奉仕している一場面である。やがて彼らは伊豆の奥野の狩りにくりだしていった。頼朝の「徒然」を慰めたのは、武士ばかりではなく、頼朝の監視役て伊豆国伊東荘と河津荘を領有している伊藤祐親の娘八重姫とのあいだには男子までなしている。しかし、それは、祐親の在京中のことで、祐親ほ平重盛を荘園領主として仰いでいたため、頼朝は帰郷した祐親に追われてしまうはめになる。
頼朝は、肥沃な北伊豆平野を領有し、また伊豆介として、同国府の権勢を一手におさめていた北条時政のもとに逃れ、そこで時政の娘政子とむすばれる。これも3年間の皇居大番役で時政が在京中のことてあったということだ。時政もまた祐親とおなじく頼朝の監視役であった。
また、頼朝とは同じ境遇の流人との語らいも徒然の慰めとなった。承安3年(1173)には、京都高雄の神護寺再興を企てた文覚が、勧進のために院の法住寺御所におもむいて悪口狼籍をはたらいたことで、伊豆奈古屋に流された。もとは、頼朝と同じ武士だっただけに、頼朝との都の話はつきなかっただろう。文覚はしきりに頼朝に挙兵をすすめていたという。しかし、頼朝の脳裏には、少年時代に体験した悲惨な敗戦の記憶があり結果の不確実な行動を拒否するのである。
平氏は、権力が強まるにつれて、摂関家領を自己の所領にするなどの横暴な振る舞いをし、後白河法皇などの反感をかうようになった。1177年の鹿ケ谷事件をはじめ、平氏打倒のさまざまな計画がたてられた。このような京の情勢は、頼朝の乳母の妹の子、三善康信が伝えていた。やがて平氏の一族和泉守平信兼の子で、都では検非違使をしていた兼隆が父との不和により解官され、伊豆に流れて伊豆国在庁堤権守信遠を後見とし、威勢をふるいはじめた。
1180年4月27日以仁王の平家追討の令旨を義朝の弟義盛(行家)か頼朝のもとへもってきた。その年の5月源頼政は、後白河法皇の皇子以仁王を奉じて平氏打倒の兵を挙げたが失敗に終わり、頼朝の身辺はあわただしくなった。伊豆の知行国主が、兼隆の仕えていた平時忠になり、平家の力がここまでのびてきてしまったからには、ぐずぐずしている時間は許されない。6月24日、頼朝は、日ごろから心をよせる伊豆・相模の家人に書状をやって挙兵の準備をうながし、8月17日ついに頼朝は兵をあげ、堤・兼隆の2人を襲って討ちとった。
そして、頼みの綱としていた三浦氏一族の到着が遅れるため、すぐに伊豆を出て相模に向かったが、頼朝率いる「3百余騎」が石橋山まできたところを、挙兵を知った相模の大庭景親率いる「3千余騎」と、伊豆の伊東祐親率いる「3百余騎」とに挟撃され、惨敗を喫した。この敗戦の場が上肥実平の所領のうちにあったことで、彼の案内によって箱根山にのがれ土肥の真鶴岬から舟で房総半島へ向かった。
その後は順調に鎌倉へ駒をすすめ、軍は総勢5万余騎にもふくれ上がっていた。それを知った清盛は孫の維盛に兵5万騎をつけ、頼朝討伐のため東国へ向かわせたが、これを富士川で迎え撃った頼朝勢はおよそ20万騎にもなっていたため、それに恐怖した維盛は富士川の陣から兵を撤退しようとした。そのやさき、葦の中にいた数千羽もの水鳥が何に驚いたか、いっせいに飛び立ったので、それを夜襲だと勘違いをし、維盛の兵はたちまち逃げだし、維盛自身、わずか10余騎の兵とともに京へ逃げるという無残な結果となった。
富士川で維盛を破った翌日、頼朝は黄瀬川に宿陣した。そこへある若武者が訪れた。源氏の旗あげと知って、奥州平泉から馳せつけたというこの若武者は、まぎれもなく頼朝の弟である義経であった。頼朝は、初めて見る異母兄弟ではあるが、この対面を喜ばずにはいられなかったに違いない。そして、兄弟力を合わせて、平家を滅ぼし、源氏の再興をはかろうと誓った。
感動の対面といいたいところだが、ここに頼朝のもう一面をうかがえる話がある。奥州からはるばる義経が馳せつけたさい、最初頼朝はいぶかしげな顔であったということである。確かに頼朝にしてみれば、幼いころからまったく交流がなく、伊豆の僻地に20年間も忍従の流人生活を送って、ようやく世にあらわれた時点で、突然、弟であると名のりでられても、肉親の実感などわかなかったに違いないだろうから無理もない。
この合戦の勝利により、頼朝は、すぐに上洛しようとしたが、関東にはまだ反頼朝勢力も多く、また、そのまま以仁王の令旨の線にそって、平家を退け新たな天皇を位につけるというみちを歩んだとしても、頼朝には位につけるべき皇子がいなかった。そのことから、頼朝は関東に踏みとどまり、自立的権力を築くみちをあゆむことにした。
本領安堵(所領支配権の承認)や新恩給与(所領の授与)などをひろく南関東の武士にあてがった。これは本来なら荘園領主や国司が行うべき権限を、頼朝がとってかわって行使したものてある。そして、関東における真の支配者の位置を明示するために常陸の佐竹秀義を攻めた。さらに、御家人を指揮・統制する侍所の別当(長官)に和田義盛を任じて軍事組織を整え、挙兵3カ月後にして関東に小幕府が出現したのである。
一方、木曽義仲もまた以仁王の令旨をうけて挙兵をし、信濃に侵攻、同地方の平家の豪族を次々と平定していき、たちまち北陸を支配して頼朝とのあいだの勢力圏が定まった。ところが、頼朝に不満をもつ源行家と北関東で勢力を占めつつあった志太義広が頼朝に反旗をひるがえして義仲方にはしったため、頼朝、義仲両勢力は武力衝突の段階までいったが、義仲の子義高を頼朝の娘大姫と結婚することで人質として鎌倉入りし、事はおさまった。
この翌月、越中と加賀の境、倶利加羅峠で義仲は平維盛を炬火を角にむすびつけた数百頭もの牛で攻めて破り、勢いにのって入京した。平氏は西国へと落ちのびた。義仲の軍勢は前々年の大凶作、大飢餓の影響を受けていたため兵糧の不足などから京中で資財を略奪し、人々の支持を失った。朝廷との接近をはかって東国一帯の支配権を認められた頼朝は、後白河法皇の求めに応じて義仲をうつために、弟の範頼・義経に大軍をあたえて上京させ、義仲を近江の粟津に敗死させた。
この間、平氏はしだいに勢力をもりかえし、反撃の機会をねらっていたため、後白河法皇から平氏追討を命じられた頼朝は、義経らに兵をすすめさせた。平氏が清盛の3周忌をめざし摂津福原に集結すると、これをむかえ討つべく範頼は浜側から、義経は丹波の山側より一ノ谷にむかった。清盛の法事も終了した日、平氏のもとに院宣が届き、和平のため使者を派遣するので武装を解くように求めてきた。それを信じた平氏か院の使いを待っていたところに、浜と山から関東の武士が押しよせてきたので、平家は総崩れで壊滅的な打撃をうけて屋島へ去っていった。
この戦いで勇名をはせたのが、平氏を山側から突いた義経の軍勢である。しかし、この義経に対して頼朝は、恩賞を与えなかった。義経は頼朝をもしのぐ軍事の天才であったばかりに、頼朝のために武勲をたてればたてるほど、頼朝に信用されず疑われ、警戒されてしまうのである。
そうした頼朝と、義経との関係を、勢力回復をめざしていた後白河法皇がみのがすはずがなかった。東国の武士と戦法のことでつねにいさかいをおこす義経に、頼朝が恩賞を与えなかったのをみて、すかさず法皇は義経を検非違使に任じた。この時、頼朝の方針に、朝廷と独自に結び、頼朝に並びたつような存在があってはならないという王朝国家に従属するにさいしてたてたものがある。義経は、この任命を、「自然の朝恩」であるとして辞退せず、鎌倉府には、頼朝の推挙がなければ、任官してはならないという鉄則があるのに、義経が勝手にその鉄則を踏みにじってしまったので、頼朝は怒り、平家追討使からはずして、範頼のほうに期待をかけた。ここて、頼朝はいちだんと義経への猜疑を深くした。
範頼に期待をかけたものの彼の平家討伐は手間取っていた。頼朝ほ範頼のふがいなさに苛立ったあげく、義経の起用を決断した。義経に武名をあげられるのもいやだが、ぐずぐずしていたらとりかえしがつかなくなることを考えると、義経の天才的な戦将としての才能を頼むしかない、というのが頼朝の冷徹な計算であった。義経は、屋島に逃れた平氏を急襲して破り、海上に追いおとし、壇ノ浦て平氏一族を滅ぼした。
平氏滅亡後の頼朝の処置は迅速であった。すぐに義経に上洛をめいじ、範頼には鎮西統治を命じて戦乱地の四国・鎮西に急速に勢力を浸透させていった。そして義経が京に帰ってきた時、それを待っていたのは、頼朝からだされた一通の手紙であった。それには平氏追討の最中に京において「朝恩」により任官した「東国の侍」にあてた下文で、頼朝の許しなく「自由に拝任」したとして彼らの東国への帰郷を認めないということが記されていて、そこには頼朝の怒りといらだちがよくあらわれている。この下文が暗に義経を非難しているのはあきらかである。
あわてて義経ほ使者を鎌倉に送り、異心なきことを頼朝に伝え、さらに壇ノ浦で生け捕った宗盛らをともなってみすからも東国に下り、鎌倉の人口腰越から大江広元をつうじて訴えたが、叶わず、義経は傷心のまま京へ帰ることになる。義経は、武家政権の確立のため、御家人や郎党に、命令の徹底化をはかっていた頼朝に対して、ほとんど反逆ともいうべき行為をとってしまっていたのである。たとえば、壇ノ浦の合戦の後、壇ノ浦で生け捕った敵の一族、平時忠の娘をめとっていた。
このような行動をとった義経は、あまりにもおのれの立場に対する自覚が薄かったといわざるをえない。頼朝が義経をいくら兄弟だからといって許す気持ちになれなかったのも無理はないだろう。しかも、平家が滅亡してしまった今となれば天才的戦将としての義経の才能も、もはや鎌倉政権にとってそれほど必要性はなく、むしろ、いつその才能で反逆するかわからないという危険さえ感じさせる存在になっていた。義経が京に帰りついたとき、すでに頼朝は、以前に義経に与えた平家の領地24カ所を没収しており、もはや兄弟関係の破局は決定的となった。
頼朝や義仲を裏切った謀略好きな源行家が次は義経のもとへころがりこんだ。このことにより、身の危険を感じた頼朝は、義経暗殺の密命をだした。六条堀川の義経邸を頼朝から差しむけられた土佐房昌俊が83騎をひきつれて襲ったが失敗した。この翌日早朝、ついに義経は法皇にせまって頼朝追討の宣旨を得た。義経ほ挙兵するとすぐに軍勢を催促したが、それに応じる武士はなく、逆に義経を討つという噂さえ流れた。頼朝は大軍を率いて鎌倉を出発したということが義経の耳に入ると、義経は進退きわまり姿をくらました。それを知った頼朝は上洛を中止し、かわりに北条時政を京に派遣した。大軍を率いてやってきた時政に法皇はあわてて義経追討の宣旨をだし、義経追跡の名目で日本全土に守護・地頭をおくという頼朝の願いを聞き入れた。
それから2年後、義経が遠く奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せていると頼朝の耳に入った。攻めるには相手が悪いため、法皇に義経を差し出すように秀衡への院宣を頼んだが、秀衡は命令を断り続けた。しかし、秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経を殺してその首を鎌倉へ送った。頼朝は奥州を征伐すれば全国銃一を成すことができるということから、泰衡を討ちとったのである。
その後は、朝廷より征夷大将軍をゆるされ、頼朝は、名実ともに武家の棟梁となった。
〜おわりに〜
頼朝という人物は政治上その他のことでも分かるように大変な理性家であった。冷徹で厳しくごまかしや妥協を許さないこの態度は、20年もの流人生活が彼をそのようにさせたのかもしれない。平家討滅、鎌倉幕府の創設に功績のあった弟の範頼や義経まで心から信じきれず、最後まで疑ったところからは、頼朝の兄弟への情愛か希薄であったことがうかがえる。いくら兄弟であるとしても頼朝にとっては戦場をかけめぐり源氏再興のためにはたらいてくれる単なる有能な一武将という存在でしかなかったのでしょう。だから義経が法皇と結びつき、また、平家を滅ぼすほどの力をもっていたということは、頼朝にしてみればいつかは自分の首を狙いにやってくるかもしれないという不安があってもおかしくはない。そんな不安の種である義経を討ちとったのも武家政権確立のためにしなければならない仕事のひとつだったのではないだろうか。もし、義経が生きていて頼朝の子頼家などを補佐していたら、源氏の世が3代で終わることもなかったかもしれない。
<参考文献>
源頼朝 永岡慶之助 著
日本の歴史〜鎌倉と京〜 五味文彦 署
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