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源義経
byかくちゃん
<生い立ち>
1159年、平治の乱の年に父、義朝 母、常盤(丸条院の雑仕:頼朝の母より身分が低い)との間に生まれる。翌年、父の義朝が尾張で殺され、わずか2歳の義経は母に連れられて京都におちていった。京都へ上った母は、大蔵卿藤原(一条)長成と再婚した。義経は長成の世話で出家するために鞍馬寺に入った。しかし義経は僧侶になる気などなく自分自身で成人の儀式を行って奥州の藤原秀衡のもとへ走った。奥州へ入った義経ほ最初のうちはとまどいつつも秀衡に優遇され6年近くの日々を送ったようである。この問、義経は機敏な行動と素直な人柄とで秀衡や地元の武人たちに慕われていったようである。
<頼朝との出会い>
1180年富士川の戦いの翌日、義経は頼朝の旗上げを聞き富士川へ向かった。義経は富士川から黄瀬川に宿を移していた頼朝を訪ね涙の再会を果たした。
<義経の地位>
一の谷の合戦に勝利した頼朝は初めて畿内とその近国を占領下におくことになった。頼朝はこの時合戦でも活躍した義経を京都での洛中警固の任につかせた。そして平家追討軍の総司令官に任用した。
洛中警固の任についた義経は武士と武士とを争わせて専制君主としての地位を維持しようとはかる後白河法皇の策謀にやがてひきこまれていった。法皇は頼朝の勢威が高まってくると義経を利用して頼朝に対抗させようとした。
こうして義経は1184年8月頼朝の推挙なしに左衛門尉・検非違使に任ぜられた。そればかりか9月には従五位下になり、さらに10月には院の昇殿を許されるというように後白河法皇の近臣としての途をあゆみはじめた。
頼朝はこの頃御家人制を強固にしてみずからの権力基盤をかためて京都に対抗しうる体制を確立しようとしていた。関東の御家人が頼朝の推挙なしに京都で任官することを禁じ、平家追討の恩賞は全て頼朝がとりおこなうという方針でのぞんでいた。法皇と義経の接近は頼朝の政治路線とまっこうから対立するものであったため頼朝はしだいに義経に対する警戒を強めるようになっていった。
<義経の活躍>
1185年壇ノ浦で平家の一門を滅ぼした義経の勢威はいちだんと高まった。しかし、この直後から義経の評判は下がりはじめる。頼朝の手はずでは範頼を九州へ派遣して平家追討の大包囲網を完成することになっていたが九州へ向かった範頼の苦戦と屋島から壇ノ浦にいたる義経の鮮やかな勝利はかねてからの手はずをすっかり狂わせてしまうことになった。
この時の範頼と義経の態度は対照的であった。範頼は西海にあっても絶えず頼朝のところへ現地の情勢を報告し一つ一つその指示を仰いで行動したが、義経のほうはそのようなことをせずどんどん自分で専決するというふうであった。とくに壇ノ浦勝利後の義経は配下の武士たちの賞罰も頼朝の指示を仰ぐことなくみずからとりおこなっていた。頼朝にしてみれば義経に従う多くの武士たちは当然関東の御家人であって義経の私兵ではない。それなのに義経が御家人たちに自由に賞や罰を与えることになれば自分の権威がゆらぐことになりかねない。この時義経は一般人や貴族には人気があったらしいが前線の武士たちからは不満が沸き起こり、義経は大功を自負し驕りが甚だしいと非難をあびていたらしい。義経が武士の信望を失ったのは確かである。
<義経の反逆>
頼朝は義経を九州にとどめておくつもりはなかったので義経に平家の捕虜(平宗盛)を護送して入洛するように命じた。1185年5月義経は捕虜を護送して東下したが頼朝から鎌倉入りを禁じられた。これよりはやく頼朝は鎮西へ使者をつかわし関東への忠義を存ずる者は義経の命令に従ってはならぬとふれさせていた。義経は頼朝の怒りを察しかねて、自分は何の野心ももっていないという思いをしたためた腰越状を頼朝へ提出した。しかし頼朝の怒りはとけず“義経のもとには自分に恨みをいだく連中があっまっている”頼朝はこういって1185年6月さきに義経に与えておいた平家没官領24ケ所をすべてとりあげてしまった。これが京に帰る義経に与えた頼朝の返答であった。
しかし、1185年8月義経は頼朝の推挙により伊予守に任命された。だが頼朝はこのことを後悔し義経の伊予国支配を妨害しようとしてこの国に地頭を派遣している。こういう仕打ちに耐えかねた義経は叔父の行家にひきずられながらも頼朝への反旗をひるがえすことになっていった。
<頼朝追討宣旨>
1185年8月4日頼朝ほ叔父の行家を謀反人と断じその討滅を指示した。しかし義経はこの行家をかくまい頼朝に敵対する路を選ぶ。これに対し頼朝は義経に刺客をはなった。この情報を得て義経は挙兵を決意する。
彼は10月16日、頼朝追討宣旨の発給を後白河法皇に要求した。17日夜、頼朝がはなった刺客の一味は義経の邸宅を襲ったが義経・行家はこれを撃退した。これによって事は一気に決し18日、頼朝追討宣旨が下った。しかし義経のもとに軍勢は集まらず挙兵は戦わずして敗北する。彼らが京から落ちたのは11月3日であった。
「藤原兼実日記」によると、頼朝追討宣旨が後白河法皇の意に反したものであることは天下に周知されそのため義経は畿内近国の武士の支持を得ることができないばかりか、義経こそが謀反人であるとみなされたという。後白河法皇の考えとしては、当時在京の武将は義経だけしかおらず義経の要求を受け入れず襲われてしまっては自分の身が危なくなる。そこで「当座の難をのがれるためにまず宣下しておいて追って事情を鎌倉(頼朝)に言ってやれば頼朝も怒ることはあるまい」という安易なものであった。
<義経の捜索>
頼朝は1185年11月にゆくえをくらました義経を捜査する目的で国ごとに守護をおいた。しかし、幕府の全力をあげての捜索にもかかわらず義経のゆくえはさだかではなかった。京都・奈良を中心とする畿内近国には大きな寺院勢力や権門貴族の邸宅がたくさんあって幕府の捜査網もなかなか届かなかった。
それでも幕府にとってのたしかな情報は11月17日に吉野の蔵王堂の辺りで捕らえられた義経の愛人、静によってもたらされた。供述によると義経は11月6日に大物浦で乗船・難破してのち吉野山に潜伏さらに多武峰へ落ちたという。静はさらに厳しい取り調べを受けるがそれ以上のことは知っていなかった。やがて静は鎌倉で義経の男児を出産しているが、頼朝は将来のことを恐れてこの男児を殺している。
<義経の最期>
やがて義経は京都とその周辺における拠点を次々につぶされてついに奥州の藤原秀衡をたよって平泉へ落ちていく。平家が滅び義経・行家が没落しきって、いまや頼朝の威令のおよばぬ地域は奥州の藤原秀衡の領国のみとなっていた。しかし頼朝は国内秩序の回復をはかるとともに奥州に対する圧力をだんだんと強めていった。この時の頼朝の本当の目的は義経追討だけではなく、義経追討を名目にして奥州を支配することにあった。
秀衡は1187年春に義経をむかえいれた。これは秀衡が頼朝との決戦はさけられないと悟ったからである。しかし義経は不運であった。彼が奥州へ下った年の10月に秀衡が死んだ。秀衡には国衡・泰衡という息子がおり死にさいして、義経が大将軍として国務をとり国衡・泰衡兄弟が協力して頼朝に対処していくよう遺言して死んでいる。だが秀衡の願いはむなしく頼朝が奥州平泉に対して義経を逮捕して差し出すよう圧力を加え続けた結果、1189年間4月30日泰衡は衣川の館に義経をかこみこれを自害させた。ときに義経ほ31歳、1180年黄瀬川の宿で兄頼朝とはじめて会ってからわずか9年の短い活躍であった。その首は黒漆の櫃に納められ美酒に浸されて頼朝のもとへ送り届けられた。義経の死は当時から惜しまれ後に数々の話が作りあげられている。
<頼朝・義経兄弟の悲劇>
「義経が負った兄頼朝との相剋の因は奥羽の藤原勢力との関連において引き起こされたものである。」
「頼朝・義経兄弟の悲劇は新しい中世国家の確立をめざす頼朝の政治目標を義経の凡庸さがついに理解しえなかったところにおきたということができる。」
「義経は軍人であって政治家ではない。頼朝は政治家であって軍人ではない。その相違が悲劇を起こした。」
「動作は敏だが読みは浅かった。人に愛されたがそれに乗って慢じてしまうという面があった。だから兄の頼朝にも法皇にも利用できるだけ利用されて結局みずから墓穴を掘ることになった。そこに義経の悲劇があった。」
参考図書から抜粋させていただきました。
参考図書
渡辺保 著 「源義経」 吉川弘文館
河内祥輔 著 「頼朝の時代」 平凡社
大山喬平 著 「日本の歴史9 鎌食幕府」 小学館
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