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座談会
〜「裏切り」を通して〜
「裏切り」をテーマに3カ月ほど研究をしてきた我が歴史部であったが、ここにきてこのレポートをどのようにまとめるかで意見が対立、発案者も我が部の親団体の用事で学習会に参加できなくなり、研究発表の完成は益々混迷を極めていた。そこでこの戦況を打開すべく行われたのがこの座談会である。
座談会の目標は今更ながら「レポートの柱を決める」できれば「この座談会をもって“まとめ”の文となす」の二つである。この命題に向かって部員たちが何日も夜遅くまで横道に幾度もなく脱線し、頭をスライム状にしながら考えた結果を皆さんに読んでいただきたいと思う。この座談会に出席した者、そして最後まで拙い文を読んでくれた読者様に栄光あれ!
96年度 座談会
K.さて、このレポートのまとめかたなんだけど、資料集めという形にするのか、道徳的に見るのか、どちらにしても一本柱が欲しいよね。俺は道徳の善悪でまとめたいんだけど。
To.そうだね。資料はその当時の人々の主観が入っているから、そこからまとめを導くのは余り良いとはいえないしね。
Su.どちらにしても『裏切り』というテーマからは、幹なる部分は存在しないような・・。もしあったとしても枝別れた部分が多すぎる。抽象的だけど分かるだろ。あっごめん、なんのための座談会か意味がなくなってしまうよね。・・・(反省)
J.今の善悪で当時の行動を判断することはやっぱり出来ないと思う。価値観もいろいろ変わって来るのだし・・・
Is.うーん。じゃあさあ、道徳とか価値観ってどうやって形成されるわけ?
St.道徳というものは当時の社会規範によって決定されるのだから、当時の社会自体をもう少し眺めてみる必要もあるでしょう。道徳で見るのも悪いとは言わないけどさ、オレとしては後でもう少し楽しいお話しもしたいね。
Mu.結局さあ、『裏切り』って個々の事例によってそれぞれ事情が異なる訳でしょ。だからこれと言って定義しようもないんだよ。とにかくいろんな方向からアプローチして考えて行くしかないんじゃない。
Is.それなら第三者の目から見るっていう方向はどうかなあ。第三者がいてこその歴史なわけだし。
K.第三者って俺達の目?それともその当時の人達の目?俺は現代の視点つまり今のモラルで判断してもいいんじゃないかな、ちょっと傲慢だけどね。
St.現代の目でねえ、確かに俺の文明論でいくと文明って言うのは蓄積してい く物として考えるから、文明の蓄積によってその中の一部分である道徳観も当然蓄積していくって考える。だからKの言うことを援護するつもりはないんだけど、やっぱり現在の道徳観は過去の道徳観より成熟していると言うことになる。だからKの言うことは、傲慢ではないんだよ。
Is.僕としてはやっぱり当時の人の目が第三者の目だと思うな。今でこそ通信移動の手段が発達して世界が均質化する傾向にあるけれども、やっぱり西洋と東洋じゃ道徳観に違いがあるよ、今だにね。だから僕達の目だけで見るんじゃ東洋のことだけしか分からないような気がする。
N.現代のモラルが、当時の人たちの形成した世論が積み重なってできたというのは否定できないと思うので、第三者の目というのは、当時の人たちの目のことだと思いますが。
K.そうなると、今回の研究発表では勉強不足だね、現代のモラルって点でもだめだけど。ブルータスの場合、当時は「国父殺し」として民衆に裏切り者の烙印を押されたけど、今の目から見ると独裁から共和制を守ろうとしたという考えができるもんね。民主主義が最高だと教えられた俺達にとってブルータスの行為は正義の行為だとは考えられないかね。
J.しかし現代の価値観で歴史を判断するのはやっぱり問題があると思います。当時の人は当時の価値観で動いていたんだし・・・現代のモラルは昔のモラルより優れている、とみるのは現代人の傲慢だと思います。だからKさんやStさんは傲慢だと思います。
U.だけど現代には、教育というものがあるでしょ。過去の教育と現代の教育を比べてみたら、現代のほうがより成熟しているということになるよね。だからそれが今の道徳とかモラルに与えてる影響って大きいんですよ。決して傲慢とは思わないなあ。
K.まあ、とりあえず今の道徳観を中心に見ていこうよ。
St.じゃあ何をもって道徳観って考えるの。
K.とりあえず人間は一人では生きてはいけないよね、集団生活をいとなむ上ではある程度の共通認識がないと社会がうまく動かないじゃない。その共通認識ってのが道徳でしょう。俺は「裏切り」って行為はその道徳に反すると思っているんだ。
N.でも道徳って善悪の判断基準ですよね、しかも各人によってそれぞれ持っているもののちがう・・・善悪って相対的なものなんですよね。
St.そこで難しく社会全体の道徳とかモラルって考えなくても、道徳を形成していくのは個々人なんだから根底にあるのは個人の道徳なんだよ。個人の道徳でまず一番に来るのは、本能からくる自己保存を道徳として取り込むことだよね。
K.だから俺のいいたいことは、ミーイズム(個人主義)の極端化を防いで『一人はみんなの為に、みんなは一人の為に』という原則のある社会を作りたいってわけよ。つまり、裏切られにくい社会を作ればいいんだよ。
St.まあさっきも言ったことだけど、人間っていう動物は『群れ』、つまり一人では生きて行けないのだから、自分の生きて行く場である社会を少しでも自分にとって危害のない社会にしていくのは自己保存の、一つだよね。そう考えれば、そんな社会を作り出す為の手段として道徳とかモラルを重視するのもなんとなくわかるね。
To.要するに、人間社会というものはどれだけ個人が傲慢さを押え込めるかに安定しているか、安定していないかのポイントがあるんですよ。つまりどこで妥協できるかにかかっているとも言えますよね。
Is.じゃあ正義はどういった役目をはたしているんだ。
A.正義と道徳の境界線てあるんですかね。
St.俺は正義というものは本能を包む鎧と考える。つまり自己正当化の道具であったことが歴史上多く見られた。だから正義が道徳に立脚しているものとは考えられないんだよね。だいたい、道徳というものは人間がスムーズに社会生活をおくるためのルールでしょう。むけられた対象が違うんだよ。
Is. まあ、モラルというのはみんなのお約束事だよね。ただStさんのいう正義とか道徳は狭義の解釈だよね。
K.正義って奴も道徳と同じように社会の変化にしたがって移行していくのね、おまけにいつでも付け足し可能なものだからもっとややこしい。勝者の論理ってやつ。
Is.じゃあ、モラルはどうなるんだろう。モラルというのはある意味で宗教によって支えられている面もあってたちが悪いよね。それに頑固だから弾圧だけではなんともならないよね。
St.じゃあ、モラルはIsさんの考えからするとモラルと言うのは、宗教とか集団の狂気によってつき動かされていると言うことになるよね。だからモラルの変更には同じように狂気でもって対抗するしかないと思う。だから裏切りと言うものもある意味で狂気だと思うけど、それが変更の原動力となるには力が小さすぎると思うんだよね。
N.だけど、現在のモラルから見て、やむを得ないと思われる裏切りとか、結果的によい方向性をもたらした裏切りは、そう思われた時点で既にモラルを変更してしまったとも言えませんか?
K.モラルというのは正義と違って為政者によって取っ換え引っ換えされるようなものじゃないんだよ。モラルの変更には民衆全体の改心が必要なんだ。でも、そのモラルが現在では個人主義の台頭で「裏切りO.K」って風潮になっている。僕はこの傾向を危惧しているんだ。ここの座談会に参加してる人だってほとんどがそうだろ?現在の風潮はマキャヴェリズムの乱用だと僕は思うね。極論言っちゃうとこのままだと信義もない社会、無秩序な社会になっちゃうんじゃないかって。
Ar.じゃあ、裏切りによって秩序が破壊されることは看過されるわけないですよね。
M.だったら聞くけど君達が破壊されることを恐れている秩序ってなあに?
Ar.難しい事を言ったらきりがないから、「住みやすい環境」てとこかな。
St.さっきも言ったけど、人は群れを乱して生きていけるだろうか?仮に自己保存に追及したとしてそれが何のうえに成り立っているかを考えると裏切りによって秩序が破壊されるなら裏切りは悪だと俺は思うよ。
J.秩序を破壊するのは悪だと言うのはわかったけれど、その秩序が悪のときはどうなるの?
St.秩序と言うものは、生きてゆく手段として必要なんだって。だから善悪の概念では考えられないでしょう。
K.人間はまず生きることが一番だと思う。だからどうなるか分からない未来の為に今の秩序を放棄して、新しい秩序に身を任せることは勇気のいる行動だと思う、だから多くの人は保守的なんだ。
St.さっきJが秩序を善悪で判断しようとしたけど、一つの秩序は必ずしも普遍であるとは言えない。それは歴史を眺めてみれば分かることなんだけど秩序にも寿命があるんだよね。つまりちゃんと秩序にも起承転結があって、一つの秩序を終わらせるきっかけを作るものの一つとして裏切りがあると思うし、裏切りが新しい秩序を作りだすきっかけとなることもあるのも事実じゃないかな。俺は最初に秩序を破壊するものとして、「裏切り」を悪としたけれど歴史的必然として考えるしかないと思うよ。
H.歴史的必然ってなんなの?
K.人間が不老不死じゃないことがあたりまえのように、秩序でも国家でもいつかは終焉を迎えることになるんだよ。そのサイクルの中の転換期における一つの要因に「裏切り」が挙げられるって言うことだと思うよ。
St.だから、Kの言ったサイクルを認識できればそれが歴史的必然と言えるんじゃないかな。つまり、裏切りをそのサイクルの中の一つと考えれば本来は悪と考える裏切りもケースによっては単純に悪だと言い切れないことになるんだべさ。もう少し詳しく言わせて貰うと、裏切りが結果として秩序を破壊することになったならば、確かにその裏切りは悪だと言えると思うんだよ。歴史上、自らにとって肌の合わない秩序を打破しようとして時の権力者を裏切ったり、クーデターを起こした奴はごまんといたけど自分の欲望にのみ従って裏切りを起こした奴らはだいたい失敗してるよね。だけど社会が閉塞状況にある状態で起きる裏切りっていうのは、大多数の人間が秩序の転換を望んでいるのもあってか、成功する例も多いよね。じゃあそういう状況の下で裏切りを起こす人間っていうのは、自分の欲求より社会全体の利益を優先して事を起こしたのかった言えば、そうじゃないんだよね。基本的には裏切る奴の動機っていうのはいつの時代でもいっしょなんだ。だからそれが結果として善と判断されるか悪となるかは当時の状況によるよね。ただ後者のような裏切りは社会の閉塞状況に反応して自然発生的にでてくるものかも知れないね。そこでオレとしてはそんな裏切りの事例を歴史的必然の発現として、例外と認めたいね。
Is.なるほどね。裏切りが成功する時っていうのは裏切りを起こす人間と社会つまり民衆の利害が一致したとき、経済で言うと需要と供給の関係が成立した時ってことになるのかな。一方的な押し売りはやっぱり嫌われるんだね。
H.とろくっせい、まぁ わけわからんて−。俺は自分なりに裏切りと秩序についてぶちまけたるわ。確かに裏切り全てが秩序を破壊するなんてことは極論すぎるて。俺は何か裏切りと言う単語は(道徳論を別にしたとして)社会秩序のうちに生活する市民特有のエゴ(自己保全と個人的幸福追求)ということとつながっていると思うんだわ。だから私たちは何か国家からなんらかの自らにせまる危機に対して、それを取り除きたいと思うだろうてっとりばやくいえばそれが小さな意味での秩序破壊の願望ととれるんじゃないかな。またこんなことが多くかさなっている現代社会においては大きな秩序破壊願望にもつながって来ると思うな。ここで私たちは過去の歴史の裏切りを考えたり見たとき、やっぱり裏切りとは秩序破壊の一番てっとりばやい方法だと感じているのじゃないかな。また現代に生きる我々は裏切りについて一種の英雄やあこがれとして理解させられているのじゃないかな。全然まとまっとらんな。
K.ちょうどいいところなんでこの話をしとこうか。人がある事件を「裏切り」と判断するときの要素として次の3つのパターンとその複合型があるんだ。一つは『裏切り者が裏切ったと認識した場合』、二つ目は『裏切られた者が裏切られたと認識した場合』そして最後は『第三者がその事件を裏切りと認識した場合』。で、この3つが時には単独で多くは複合型で「裏切り」であるかを判断する要素になっている。先の二つはあまり説明は要しないだろうが、最後の第三者の認識と言うのは今までさんざん話してきたモラルや秩序のことなんだ。
T.そのモラルというやつは結局当時の民衆のこうあってほしい社会、希望の反映であるから時として道義に反する行為をしても歓呼の声で迎えるという事態も起こり得る。とあるイタリア人が「一人の民衆は一人の馬鹿、二人の民衆は二人の馬鹿、一万人の馬鹿は、無視しえない勢力となる。」とのたまった。つまりオレからしてみれば、民衆という存在は価値判断の基準するにはあいまいで危険な存在であると思うんだ。よほど注意して考えないと足元をすくわれる。歴史上の事件の善悪の価値の逆転があるのはここからきてると思うんだよ。そしてそれは無視できないものになる。
G.Tの言ってる例としては「楠木正成」の評価ってのがあるなあ。彼は江戸初期まで悪人とされてたけど、明治時代には忠義の士として神格化までされたんや。
以下延々と議論は続く・・・・・
議論はヴァルハラの高みにまで昇り、そして部員たちをとり残しそして霧散した。
この座談会において『裏切りは道徳に反するか』から始まり、そして議論は道徳観から本能へ、そして部員の統一見解は結局でず座談会は終了した。しかし部員一人一人の心の中には、肯定であろうと否定であろうと何らかの答えが生まれたと思う。読者の方々には煮え消えないものがあるでしょうが、僕達のレポート、また座談会を通して何らかの答えらしきものが生まれたでしょう。 個人主義が浸透してきている現代において『裏切り』は本当に必要悪なのだろうか?
Zu jedet Zeit
an jedet Ost
bleibt das Jun
det Menschen das gleiche
〜時は移り、所は変われど、
人類の営みには何ら変わることはない。
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