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僕の大好きなユダヤ人2
byきゃみさん
さて、2回目になる「ユダヤ人」についてのレポートだが、この間はローマの属国になるとこまで勉強したが、まずそのへんを整理しておこう。
紀元前167年、ユダヤを支配していたセレウコス朝シリアが「ユダヤ教禁止令」を発布し、ユダヤ人にギリシャ神を押付けユダヤのすべての習慣や信仰を止めさすようにした。これに怒ったユダヤ人はユダ(通称マカバイオス→ハンマーの意)を中心に蜂起し、シリアから独立を勝ち取った。ここまでは前回のレポートの話しだがみんな思い出したかな?では、この続きを話そう。
その後、ユダの兄弟たちが領土を拡大していったが、外敵と内紛のため弱体化し、紀元前63年ローマに滅ぼされる。(ポンペイウスによって)その後パレスチナはローマの属領となり一応自治が続いた。そしてその属領主として悪名名高いのが「ヘロデ」である。このヘロデ、紀元前37年から30年間にわたって圧政を行った。そんでもってこのような暗い世相の中から生まれたのがあの「イエス=キリスト」である。
「イエス=キリスト」この人物がユダヤ人に与えた影響は計り知れない。彼さえ生まれなかったらユダヤ人はもっと楽に生きて行けただろう。神様も粋なはからいをしてくれるもんである。この人がユダヤ人であって、キリスト教がユダヤ教を元にしていて、キリスト殺しが世間一般ではユダヤ人のせいである、とされていることは皆も知っているだろう。そして彼らの運命も・・・・
そのことについては後々に書くとして、「キリスト殺し」については、ランバラルさん・亀さん・あべちゃんのレポートでも読んでくれ。結局ユダヤ人たちはその後もパレスチナにとどまることを許されて、新興宗教キリスト教に対抗しつつ、信仰と神殿崇拝をつづけることになるのである。(キリスト殺しについてはユダヤ人の仕業ではなく、ローマ人の仕業であると1964年にローマ法皇庁は公式に発表した。)
離散(ディアスポラ)の民・流浪の民の歴史
しかし彼らの平和は長くは続かなかった。紀元66年、ローマの行政長官フロールスのユダヤ人虐待を契機に熱心党と言うレジスタンスがローマ守備隊を襲ってしまう。以外とユダヤ人は善戦し、最盛期のローマ軍を相手に4年ももちこたえた。しかし70年の夏にエルサレムはティトゥスのローマ軍によって一年の包囲の後陥落した。その時の戦いや虐殺での戦死者は100万人近くにのぼったとされている。
この戦争でユダヤ人は祖国を失いバビロニア捕囚に次ぐ第二のディアスポラ(ギリシャ語で離散の意味)が始まった。
余談
『この争いの逸話にある一人の有名なユダヤ人がいる。その名はヨセフスと言い、彼はヨタパタの戦いでローマの捕虜になり、その後敵であるローマ側に寝返りユダヤ人に対する戦いを助け「名誉ローマ人」になったユダヤ史上1・2を争う裏切り者である。しかし彼は歴史家として幾つもの優れたユダヤ史の著作を残している。』
その後、皇帝ハドリアヌスのエルサレム異教化政策に対して起こったバル・コフバの乱(132〜135)でこのディアスポラはより決定的なものになった。この戦いでユダヤ側の死者は8万人に及び、廃墟となったエルサレムにはローマの神殿が建てられ、完全に異教徒の町になってしまった。そしてユダヤ人はエルサレムに住むことを禁止され、この後1800年間、世界のあちらこちらに離散する羽目になってしまったのである。
しかし、そこはすてきなユダヤ人である、こんなことでは希望を失うわけがない。彼らはユダヤ人の苦難をあわれんで神が遣わしてくれたメシアの助けを借りて、地上に神の国を実現し、故郷パレスチナに復帰できると言うメシア思想を生み出した。このことについてこんなことを言ったおっちゃんがいる。
「国家としてのイスラエルはすでに滅び、神の存在と、その約束を疑うことすらできそうな恐るべき危機の中にあって、根強い一つの楽天主義が支配し、存続する。すなわち、苦難は一時的であって、時の終わりにおける救いの望みが宿っていると考えたのである。」
このメシア思想ユダヤ人を考える上での一つの鍵となるもので、ユダヤ人が苦しさや絶望に陥ったとき必ず生まれ、そしてその度に人々の深い失望とともに水泡のごとく消え去るのである。フッフッフッ
さて、祖国を失ったユダヤ人は帝国各地に散らばった。と書いてはみたがそうでもないらしい。ユダヤ人の拡散は古くはソロモン王の時代までさかのぼり、彼らがエルサレムを失ったからというだけではないようなのだ。(しかし祖国喪失が決定的だったが)ストラボンの話によればアウグストゥス帝の時代には「実際ユダヤ人の定住していない場所は、我々の知る世界のどこにもない」ということらしい。彼らは自発的に移住したものが多かったけど、そればかりではなく先述の戦いによって他の地域に強制連行されたり、奴隷として売られたり、時として多くの非ユダヤ人がユダヤ教に改宗したり(このへんがユダヤ人らしい)さまざまな理由で帝国中に広がったようなのだ。彼らは小アジアや北アフリカ、黒海沿岸、イタリア半島、イベリア半島、フランスやドイツ地方まで紀元直後までには定住を始めていたのである。
迫害の歴史
彼らは祖国を失い各地にディアスポラしたが、彼らは共同体(シナゴーグ)を中心に結束していた。ローマ帝国初期の頃には例外的な時期を別にすると、宗教や集会さらには独自の行政権や裁判権も認められ、皇帝崇拝やユダヤ教の規律に反するその他の義務も免除されるなど安泰な日々をおくり、212年にはカラカラ帝によってローマ市民権までもらっていた。
だが、コンスタンティヌス帝がキリスト教をローマ帝国の国教としたとき、状況は一変した。彼はローマ市民としてのユダヤ人の権利を制限した最初の皇帝となった。キリスト教の伝道師はユダヤ人を陥れ、社会的にも経済的にも従属的地位に落とし、絶えず皇帝に圧力をかけてユダヤ人の市民権を剥奪しようとした。こうしたキリスト教の制度化が固まる初期のころから伝道師立ちはユダヤ人や彼らの居住区、シナゴーグを攻撃するよう公然と大衆を扇動した。だが、キリスト教としてもユダヤ教を完全に廃止しようとは思わなかったらしい。なぜならユダヤ人こそが聖書の教義が正しいことの生き証人だったからである。(本当にキリスト教の奴らは太古からきたないね)このような迫害は西ローマ帝国が455年に滅びた後も、ローマ教皇のもとで1400年間ものあいだつづくわけである。
さて、ユダヤ人がバラバラになってしまったのでこれからは地域的に彼らの歴史を見ていくことにしよう。
最初にみていくのはイベリア半島のユダヤ人である。イベリア半島は今でこそ完全なカトリック教国だが、イスラム教のウマイヤ朝が支配していた時期があった。彼らは現在は周知の通りパレスチナ問題の当事者として敵対関係にあるが、かつては平和に共存して文化の華を咲かせたこともあったのである。
イベリア半島では伝説ではソロモン王の時代からユダヤ人が住み着いたということだが、ローマの支配のあと5世紀始めにこの地に入って来たのはゲルマン民族(ヴァンダル族・西ゴート族)であった。しばらくは何もなくすごしていたが、587年西ゴート族の王レカレドがカトリック教に改宗するにいたってスペインはカトリック教国になり、ユダヤ人に対する制限も始まった。
589年ユダヤ人とキリスト教徒との間に生まれた子供には洗礼を受けさせること命じたし、613年にはスペインの全ユダヤ人に改宗を強要した。それ以後は寛容、改宗、追放の波間に翻弄されることになったが、694年ユダヤ人が北アフリカのイスラム教徒と秘密の同盟を結んでいると言う噂を聞いたエギカ王はユダヤ人を大逆罪で告発した。この結果ユダヤ人は全財産を没収され、全員奴隷にされ、ユダヤ教を信じることも認められず、さらに子供たちは7歳で連れ去られ、キリスト教徒として修道院やキリスト教徒の家庭で教育された。これらのひどい仕打ちに多くのユダヤ人が国外退去の道を選ぶしかなかった。
しかし、711年イスラム教徒がタリク・イブン・ジヤードの指揮のもと7000の兵でアフリカから巨大なジャバル(岩山)のそばに上陸して攻めてきた。(ちょっと豆知識この“ジャバル・アル・タリク”が訛ってジブラルタルとなった。)711年11月9日の戦いでイスラム軍は西ゴート族を殲滅し、スペインを手中におさめた。ひそかに自分達の文化を守っていた多くのユダヤ人はイスラム軍を解放者として歓迎した。イスラムとしても少数の兵しか率いてなかったのでユダヤ人を征服地の守備隊員に登用した。ユダヤ人はこれによって奴隷の状態から、新しい支配者の同盟者にまでなった。ユダヤ人はキリスト教徒と共に重税を払うかわりに信教の自由を手にいれたのであった。
スペインのユダヤ文化はアブド・アッラフマーン3世の統治のとき(912〜961)、イスラム文化とともに最盛期をむかえることになった。この時スペインはユダヤ人の避難所として約30万ものユダヤ人がいたとされている。彼らは農業、土木、商業の他にもアラブ人を助けて政府の役人や学者や医者になる者もおり、アラブ風の名前を名乗り、アラビア語をしゃべっていたが宗教はユダヤ教をつらぬいていた。
さてこの時の繁栄はユダヤ史上類を見ないとさえ言われている。政治家としては宮廷医でもあり、外交官、大蔵大臣としても有能であった“ハズダイ・イブン・シャプルート”や、八百屋から身をおこし大臣や将軍として死ぬまで数々の勝利をおさめ、なおかつ優れた詩人でもあった“サムエル・ハナギッド”などが生まれ、文化人としては“ソロモン・イブン・ガビロール”や“モーセ・イブン・エズラ”“イェフーダ・ハレーヴィ”の三人がヘブライ語の詩人として有名であり、“モーセ・ベン・マイモン”は中世最大のユダヤ哲学者として現在でも紙幣のモチーフにされたり通りの名前などになっている。
しかしこの繁栄にもかぎりが見えてきた。11世紀からキリスト教徒の国土回復運動、いわゆるレコンキスタが始まったのである。1212年にはグラナダ以外のスペインはキリスト教徒のものとなり大部分のユダヤ人はキリスト教徒の支配を受けることになった。ユダヤ人は当初、イスラムに仕えていた時のようにキリスト教徒にも政治家、財政相談役、医者、学者として重要な役割を果していた。しかしユダヤ人が重用されるにつれてキリスト教徒の反感を招き、反ユダヤ人の暴動が時折発生しだした。なかでも1391年6月に発生した暴動は特に激しく、「改宗か死か」をスローガンにスペイン全土で略奪、虐殺がおこった。そのためユダヤ人の中には国外逃亡するものや改宗するものが続出した。
この改宗者(コンベルソス)には二種類いた。本当に改宗した者と隠れユダヤ教徒(マラノ“豚”の意)である。前者の中には後に大僧正になった者、宗教論争の時キリスト教擁護論をとなえた者やスペイン貴族と結婚した者までいる。そして彼らは後者に反感をいだいていた、なぜなら自分達もマラノではないかと疑われることがしばしば起こったからである。この争いは同族であるため余計に激しいものがあった。
1469年のイサベラとフェルナンド5世の結婚により、ますますイベリア半島はカトリック一色になった。(実はフェルナンドの母方はユダヤ系)1478年、熱狂的な聖職者たちのすすめによって異端審問所が設けられ「隠れユダヤ人」を取り締まった。怪しいものは引き出され、自白を迫られたのち、罪状にあわせて鞭打ち、財産没収、投獄、火あぶりのど刑に処せられた。さらに1492年1月グラナダが陥落、同年3月にはすべてのユダヤ人に対し4カ月以内にスペインから退去するよう通告してきた。そして8月2日には最後のユダヤ人がスペインを後にしたのであった。(この日はちょうどコロンブスが出港した前日で、ちなみに彼もユダヤ人ではないかと言われているそうな。)
その後のスペイン・・・ スペインから追放されたユダヤ人は10万から20万ぐらいと言われている。彼らの多くはポルトガルに逃げ込んだが、ポルトガルにおいても反ユダヤ運動が起こり、1497年10月末までに国外退去せよとの命令がでるにいたり彼らは各地に散らばるはめになった。一方スペインはユダヤ人がやっていたような金融業務を踏襲することはできず、その結果は皆さんの知っての通りである。尚、この追放令は1968年12月16日に公式に解除され現在ユダヤ人は8500人住んでるそうな。
ついでなのでスペインから退去したユダヤ人についても触れておこう。彼らはセファルディームと呼ばれ、ギリシア、トルコ、北アフリカ、イタリア、オランダ等に避難した。(彼らの使った言葉をジュデズモあるいはラディノと呼ぶ)地中海沿岸に避難したユダヤ人はそこでもとから定住していたユダヤ人とともにオスマン=トルコからオランダやベルギーまでのびる複雑な商業ネットワークの一翼をになうようになり、イタリアの領主ならびにローマ教皇でさえ彼らの商才を高くかっていた。さらに彼らの知識はイタリアにルネッサンスの風を吹き込んだりもした。こんなわけでユダヤ人は教皇領でさえも安全に暮らせた時期もあった。この平和は1555年にパウロ4世が宗教改革はユダヤ人の謀略だとし迫害を始めるまで続いた。
迫害の後は本拠地をヴェネツィアに移し、そして商業活動をおこなったが状況はあまり変わらなかった。ちなみにヴェネツィアは1516年イタリアで初めて全ユダヤ人を市内の一区域に居住するように要求した国であり、その場所がたまたま大砲鋳物工場の跡地であったために、鋳物工場を意味するヴェネツィア語のジェットーが後のゲットーになったのである。
さて、話はかわってオランダのユダヤ人についてである。セファルディームが最も多く避難したオランダでは、信教の自由が保証されていたことと、貿易で国を興そうとしていたので、商業を得意とするユダヤ人には都合がよかった。彼らはアムステルダム(西欧のエルサレムと呼ばれた)に集まり、そこを中心に株式取引所の設立や東インド会社の設立などオランダの経済発展に大きく貢献した。また、文化面や科学面でも多くの業績をのこした。
その中にはアムステルダムで最初に印刷屋ひらき、グロチウスをはじめ多くの学者と交際があり、ユダヤ人受け入れ問題についてクロムウェルと会談したメナセ・ベン・イスラエルや、自然そのものを神とみる汎神論を説いたバルーフ・スピノザ(彼は厳格なユダヤ教を批判したために破門となった)などを輩出した。
後に、彼らの一部はより大きな自由を求めて1650年新大陸にわたり「ニューアムステルダム」現在のニューヨークを建設した。ではアメリカのユダヤ人について少し述べよう。最初にアメリカにやってきたのは23人のセファルディームであり、その後1825年までに約1万人ユダヤ人がアメリカに住みついた。次いで1820年代から1860年代にやって来たのが、中央ヨーロッパのドイツ系ユダヤ人(アシュケナジム)である。
彼らは一文無しでアメリカにやってきたが持前の商才で行商人から町が大きくなるにつれて大・中企業家へと変身した。彼らの業績は今でも残っており、ニューヨーク最初の百貨店B・アルトマン百貨店や、メイシー百貨店をはじめとして、大きなデパートのほとんどがドイツ系ユダヤ人のものなのだ。(しかし子供に高等教育を受けさせるほど余裕はなかったために、政界や学会に進出するものは少なかった。)
1880年代にはいって次ぎにやってきたのが同じドイツ系でも東欧のユダヤ人であった。それまで約27万人であったユダヤ人の人口は、これら東欧系ユダヤ人の流入で約30年間で200万人にも膨れ上がった。彼らはロシアでおこったポグロム(大虐殺)の難を逃れて来たのであった。彼らは貧しく多くのものはその日ぐらしの単純労働者として「搾取工場」と呼ばれた環境のなかで暮らすことになった。しかし彼らも持前の勤勉さで、子供を学校に通わせ、自分達も夜学に通った。子供達は学問が何よりも大事と考え熱心に勉強した。当時授業料がただであったニューヨーク市立大学はユダヤ人生徒で一杯だったそうだ。
こうしてユダヤ人の職業はすっかり変わってしまった。今日アメリカでは医師、弁護士、大学教授などについてる者が非常に多いし、ジャーナリズムや映画産業、芸能分野にも東欧系ユダヤ人の活躍をよく目にすることができるのである。さらに付け加えるなら、ナチス第三帝国の弾圧を逃れたユダヤ人が大戦中に約25万人加わり、こうして現在の約600万人という世界一ユダヤ人の多い国、アメリカが誕生したわけである。
さてお次ぎはビサンツ帝国のユダヤ人の歴史を見てみよう。330年ローマ帝国がコンスタンティノープルに遷都してすぐ、ユダヤ人はそこに共同体をつくって住んでいた。しかし前述のよに313年のミラノ勅令によってキリスト教がローマの国教になってからユダヤ人の権利は段々縮小していった。そのうえ、361〜363年にかけて背教者ユリアヌス帝が短期間ながら異教(ここではキリスト教以外)を復活しようとしたため、その反動でキリスト教徒はいっそうユダヤ人に対する憎悪を強める結果になってしまい、この激しい恨みはユリアヌス帝の死後より1453年のコンスタンティノープル陥落まで続くことになるのである。
皇帝の援助もうけ異端者を追い詰める教会は、ユダヤ人に対してますます暴言を吐きはじめたのである。このことは4世紀には「駁論」と言うジャンルまで生まれ、その代表者であるヨハネス・クリュソストモス司教(335〜407)はあらゆる堕落をユダヤ人のせいにして、ユダヤ人と悪魔を比較したりしている。彼の説教は中世の反ユダヤ主義への道しるべにになったのである。
ビサンツ帝国でのユダヤ人の扱いはひどく、帝国においてはキリスト教会の見解が理論的にも実践的にも優遇され、シナゴーグの焼打ちや追放処分がまかり通り、ユダヤ人は徐々に市民権を剥奪され専門的職業に就けなくなり、別の居住区に移された。法的にみても438年のテオドシウス法や、あの533年のユスティニアヌス法(ローマ法大全)にさえ迫害や侮辱が法律化され、さらに先代までの反ユダヤ的規定がすべて採択されていたことは特筆にあたいすることだろう。なぜならこれが中世にユダヤ人に関して出されたあらゆる布告の模範となったのである。 またユスティニアヌス帝自身もユダヤ人に対して強権的であり、宗教的機能例えば聖典の解釈や説教の内容、さらには祈祷の語句の変更まで命令してきた。彼以後の皇帝もユダヤ人に対して寛容ではなく、ありとあらゆる圧力がかけられた。
聖像禁止令が発布された頃(726年)には反ユダヤ主義暴動が頻発し、608〜943年までは、皇帝の命令で改宗が強制的におこなわれた。11〜12世紀も相変わらずの圧政であったが、第四次十字軍(1202〜04)に先立つ250年間はユダヤ人の生命と財産が法によって守られ、改宗についても強制はされなかった。さて十字軍とラテン国家におけるユダヤ人だが、旧ビザンツ帝国領では戦闘での虐殺以外は対して迫害された形跡はない。ラテン諸国の支配は1261年まで続き、つづいて1453年にビサンツ帝国は滅び、その後のユダヤ人は前述のセファルディームとともにオスマン・トルコの下で繁栄した。
ではオスマン=トルコ統治下のユダヤ人を見ていこう。1453年オスマン帝国はコンスタティノープルを陥落させ、イスタンブールと改名し帝国の首都にした。オスマン帝国は首都の人口を元通りにするため多くの人々をトルコやバルカン半島から移住させた。その中には多くのローマ系ユダヤ人が含まれていた。
そして1492年のスペインのユダヤ人追放によってやって来たユダヤ人は、イベリア半島で獲得したすばらしい文化、社会、経済の遺産を持っていたためオスマン帝国スルタン“バヤジット2世”によって暖かく迎えられた。17世紀にはその数はローマ系を上回るようになり、ユダヤ人の習慣、言語はローマ系からスペイン系に移り変わっていった。
オスマン帝国ではユダヤ人は一般的に寛大な処遇をうけた。オスマン帝国は少数民族の経済活動をなんら制限しようとせず、ユダヤ人もどんな仕事をしようとも妨げられることは一度もなく、人頭税さえ払えば公然と信仰を守ることも自由だったのである。(あ〜イスラム教徒はなんてお優しい)
彼らにとって最も幸せだったのは16世紀、特にスレイマン大帝(1520〜66)のときだった。この時はキリスト教国と戦争中であったため帝国内ではキリスト教徒よりユダヤ人はより有利な立場にさえなっていたのである。彼らはいつものように宮廷に仕えたり、大小様々な規模の企業をおこしていた。特に軍事関係(18世紀まで軍需品供給業者はユダヤ人の仕事だった)印刷出版業務(帝国内で最初に彼らが印刷機を導入した)、貿易関係、繊維産業はユダヤ人の独占状態であった。
しかし、その繁栄も帝国の繁栄と共に17世紀より衰退をはじめ、19世紀には深刻な状況に陥った。この一つ原因は欧州諸国の経済発展であり、地中海貿易が置き去りになってしまったことが挙げられる。欧州の東インド会社の影響で欧州人やヨーロッパ系ユダヤ人に仕事を奪われはじめたのである。これは17世紀に確立された委託販売制度のせいであり、これにより欧州人の定住、キリスト教徒の地位強化がおこなわれ、それに対してユダヤ人を儀式殺人で告発したり、迫害や追放がキリスト教徒の後押しによって行われるにいたった。そんな中ユダヤ人同士の中でも「偽メシア事件」(1666年)がおこったりなど混乱が続いたのであった。その後のこの地域のユダヤ人は大戦やシオニズムの動乱に巻き込まれていくのである。
さて話はかわって欧州のユダヤ人である、彼らの運命は実に悲惨である。先に述べたように455年西ローマ帝国が滅びると欧州を支配したのはゲルマン人の人々だった。彼らが旧帝国領内で行ったり来りしていた頃は戦闘に巻き込まれるぐらいで、とくに良くも悪くもなかった。さらに彼らが定住した後も、彼らが異教徒やアリウス派キリスト教だった間は概して厚遇されていたと言ってもおかしくなかった。
東ゴート王国のイタリアではテオドリック王(474〜526)によってユダヤ人は旧来の権利を回復し、自治権も認められ、さらにはキリスト教聖職者や一般人からの暴力から保護までしてくれた。またフランスのフランク王国でもユダヤ人は下層階級と言うよりもローマ市民として扱い、彼らは貿易、商業、公職に従事し、農民、医師、法律家、さらには傭兵となって働くものまでいた。
しかし、496年フランク王国の王クローヴィスがカトリックに改宗したのをきっかけに、6世紀に入りゲルマンの国々が次々とカトリックに改宗したことによって、ユダヤ人の状況は急速に悪化した。宗教会議によってユダヤ人を二等市民にすることを定まり、この余波はフランスだけではなくドイツやイタリア、スペインにまでおよんだ。
ところが、フランク王国では8世紀から11世紀後半めでユダヤ人にとって平和な時期が訪れた。この変化の基礎を築いたのはあのカール大帝(768〜814)とルートヴィヒ1世(814〜840)であった。この平和は中央ヨーロッパのユダヤ人にとってほんのわずかな寛容の時代であった。カール大帝はユダヤ人を庇護し、彼らの生活に必要な手段、私有地所有権、独自の法廷、交易や宗教の完全な自由を保証した。教養があり起業精神が豊かなユダヤ人はカール大帝のお気にいりであった。
さらにこの頃のヨーロッパのキリスト教世界はイスラム教国にかこまれ東方諸国と交易することが困難であった。ところがユダヤ人はイスラム教国の中にも多くの同胞の共同体があり、彼らは自由にイスラム諸国を動きまわることが可能であったのである。彼らはヨーロッパやイスラム諸国に巨大なネットワークをつくり貿易を独占していたのである。また、彼らは公私にわたりいろんな分野で活躍し、ルートヴィヒ1世の時には特権までもらい、収税検査官にまで任命された。彼らはフランク王国の産業とりわけ交易の発展に大きく貢献あのであった。
この平和な時代にユダヤ人は南フランスから北と東に向かい、北は北部フランスやイギリス、東はドイツやポーランドやハンガリーまで彼らの定住地は広がったのであった。
だが、ユダヤ人にとって中央ヨーロッパにおける平和な時代は十字軍によって終わりを迎えることになる。(十字軍については俺の昔のレポートを参照)
この十字軍はユダヤ人とキリスト教徒の関係に、実質的には今日にまで及ぶ深刻な影響を与えた歴史的転換点であろう。1096年に始まった十字軍、彼らは自分達の社会にも「異教徒」がいかに多いかと言うことに気付き、イスラム軍と戦う予行演習としてユダヤ人をなんの抵抗もなく殺害していった。
ルーアンから始まったこの虐殺は神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世の制止にもかかわらずライン河にそって進行し、ユダヤ人共同体はことごとく壊滅し、3ケ月の間に犠牲者は12000人に達したと言われている。さらに悪いことには、ユダヤ人とキリスト教徒の間に回復しがたい傷をつくり、ユダヤ人共同体を襲撃することが日常茶飯事になってしまったことであった。
虐殺、略奪の激しさは第2回、第3回十字軍も劣らないものであった。第2回では多くのフランスやドイツのユダヤ人が殺され、第3回ではその余波はイギリスにまで波及した。1190年に反ユダヤ暴動がロンドンではじまり、やがてイギリス全土に広がった。ヨークでは暴徒の餌食になることを潔しとしなかったユダヤ人が抵抗のあと全員自決して果てると言うような事件も起こった。これらの大虐殺は、宗教的熱心さからではなく主に暴徒の強欲さに起因するものであった。彼らはユダヤ人の財産を奪うとともに、ユダヤ人への借金を踏み倒そうとしていたのであった。
〜余談〜ここでは述べなかったが十字軍の影響はイスラム統治下のユダヤ人にも及び、多くのユダヤ人がイスラム教徒とともに虐殺された。
十字軍によってヨーロッパでは中世特有のユダヤ人に対する非合理な憎悪の基盤ができあがった。こうした事は教会や聖堂にユダヤ人を悪の権化として薄汚れた老婆の姿で描いたり、聖史劇でもっとも忌み嫌うべき悪徳の持主として表現したりしていることでわかる。さらに印刷機の登場はこれに拍車をかけた。ユダヤ人は攻撃的な版画の主題となり、そうしたユダヤ人の肖像は明らかに民衆に深い印象を与えた。
このような状態のなかで色々なデマが流された。その一つが「儀式殺人」であり、それはユダヤ人が過越祭にキリストの受難をもじってキリスト教徒の子供を生にえにし、その血を儀式に使う、と言うものであった。このことが初めて告発されたのは1144年のことであり、王、皇帝、教皇たちが否定したにもかかわらず、この告発はヨーロッパ全域に広がった。この結果、あるキリスト教徒がいなくなると、それはユダヤ人が誘拐し儀式のために殺したと言うことになり、告発によってそのキリスト教徒は殉教したということで聖者になり、一方罪を犯したとされるユダヤ人は虐殺され、また財産も没収されたのである。
さらにアホらしくなるのは「聖餅冒涜」といって、簡単に言えばキリスト教が儀式に使うパン(キリストの体に変形すると考えられていた)をユダヤ人が針でつっついたり、熱湯に入れてみたり、潰してみたりといたずらしていると言う話で、こんなデマのためにユダヤ人は告発され、虐殺のうえ財産を没収された。
そしてこれらのデマの中で最も恐ろしい結果をもたらしたのは、ユダヤ人が井戸や河川に毒を入れるというものであった。このデマは1321年フランスで初めて言われ、1348〜50年のペストの大流行のとき再び持ち出された。この時、ユダヤ人が毒を入れているのを見たという証人や自白させられたユダヤ人があらわれたり、幸か不幸かユダヤ人の間には医学や衛生学の知識が普及しいてさらに隔離された生活を送っていたためペストにかかる者が少なかったことによって、教皇が止めたのにかかわらず民衆はユダヤ人の仕業と盲信し、虐殺をはじめてしまった。この虐殺でアラゴンから東ヨーロッパに至る何百もの共同体が破壊され、何万人ものユダヤ人が虐殺された。特にドイツのユダヤ人迫害は陰惨で350以上の共同体が襲われたのであった。こうした虐殺の中、何千人ものユダヤ人が中欧、東欧に逃亡した。(東欧のユダヤ人についてはまた今度言及する)
さて、こうしたキリスト教徒の暴発はこれだけではなかった。少し年代はさかのぼるけれど、1204〜1229年に起こったアルビジョア十字軍、1320年にフランスで暴れた狂信的牧師団、1336年バヴァリアで略奪をほしいままにしたユダヤ人殲滅団、1419〜36年のボヘミアのフツ戦争、1431〜49年のバーゼル宗教会議などはユダヤ人迫害が特にひどかった事例である。
13世紀にはユダヤ人とキリスト教徒との公開討論会が再開されたが、ユダヤ人側に返答の機会はほとんど許されず、ようはユダヤ人指導者に対するキリスト教への強制的教化手段であった。さらに1240年に開かれた討論会でタルムード自体に攻撃が加えられ、タルムードは焚書の憂き目にあった。
十字軍のあと、ユダヤ人は経済的にも商売や職業の大部分から閉め出しをくらった。まず第一に都市の宗教生活と結びついていたギルドに加入することがユダヤ人には禁止とされた。さらに、十字軍がイスラム軍の前線に突破口を開きキリスト教徒が東方との交易路を回復するにいたり、ユダヤ人が独占していた東方交易もジェノヴァとヴェネツィアの富豪に独占され、ユダヤ人は国際貿易からも事実上閉め出された。
1215年には、インノケンティウス3世によって招集された第4回ラテラ−ノ公会議によってユダヤ人とキリスト教徒の共存が厳しく禁じられ(ヨーロッパでのゲットーの起源)、ユダヤ人はキリスト教徒と区別するために異なる服やバッチの着用を義務つけられた。しかもこの会議においてユダヤ人が公職に就くことと、キリスト教徒の職業に従事することが禁止された。つまりユダヤ人は事実上すべての職への道を閉ざされたのである。
もう一つ付け加えるならユダヤ人は封建制度の中で、領主にも家臣にもなれず、キリスト教徒を労働者として雇うことも禁止されていた。さらにまもなく土地所有自体が禁止され農民になることすらできなかった。 その結果ユダヤ人は田舎から町や村に移動し、そこでせいぜい百人程度、最大でも千人程度の小規模な共同体に散らばって住んだのである。(このころ“さまよえるユダヤ人伝説”がユダヤ人一般に適用されはじめた。)
そんな彼らに一つだけ残された職業があった、それは金貸業である。金貸業は1179年の公会議以来キリスト教徒には禁止されていたのである。(カトリックではお金をためるのは良くない)12世紀以降これが仏、英、伊のユダヤ人の主な収入源となり、つづく13世紀、独、ポ、ボヘミアでも同じ状況となった。この頃社会は交換経済から資本家経済システムへの移行期で、猛烈な資金需要が発生し、ユダヤ人の中には大金持ちになるものさえいた。また、彼らを支配している君主たちにとってもユダヤ人を金貸業に就かせるのは得であった。戦争や大建造物にはお金が必要であるし、金融活動に課せられている高額税金も魅力であった。(ヴェニスの商人はこの時代の頃をモチーフにしている)
しかし、この金融業も13世紀以降ユダヤ人共同体の財政的破綻、そしてキリスト教徒の金融業解禁により急速に衰えはじめた。さらにこの商売はなにかと憎まれる商売で、民衆が宗教的理由以外にもユダヤ人を憎悪する原因となった。時にはその憎悪があまりにも激しくなって、借金の返済を踏み倒そうと思ったり、商売がたきを蹴落としたいと思う人間によって意図的に暴動が引き起こされることがしばしばあったほどである。
敵意に満ちた風潮が一般に広がり、キリスト教会の圧力もありユダヤ人は住み着いた国の生活において重要で有益な役割を果すことができなくなっていた。
イギリスではジョンやヘンリー3世、エドワード1世の課した情け容赦ない高率の税金がユダヤ人共同体を貧困に陥れ、1290年エドワード1世が最終的にユダヤ人を追放すると、1657年まで再びユダヤ人がイギリスの土を踏むことはなかった。
フランスではルイ9世のとき状況は悪化し、一時的な追放を何度か繰り返したのち、1394年シャルル6世によって追放された。彼らはプロヴァンス地方に住み着くが、1世紀後にはそこも追われた。彼らは16世紀までフランスには戻ることは許されなかった。
ドイツでは小規模な追放はあったが全体的なものは無かった。しかしペストの流行時の虐殺で多くのユダヤ人が死んだか東方等に脱出した。
とりあえず、今回のレポートはここまでにしておく。ざっと見てもらえばわかるように中世までにおけるユダヤ人はどこへ行ってもいじめられる。そしていじめっ子もキリスト教徒だということがよ〜くわかったと思う。キリスト教徒がユダヤ人を悪魔と同一視していることはさっきも述べたが。ユダヤ人にとってキリスト教徒は悪魔そのものであったと思う。
さて今度の予定だが、“近代・現代におけるユダヤ人”つまりポグロム・ホロコースト・シオニズムを中心にそしてユダヤ人にまつわるいろんな噂を取り上げようかなと思っている。ユダヤ人の歴史は簡単に言えば迫害の歴史だ。世界でこれほど悲惨な民族は存在しない。おまけに民族同士で共有している歴史が違うからややこしい。やってて俺は各国史をやってんのかと思うほど共通性がない、唯一の共通点はどこでもいつでも「迫害」されていることだである。
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