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私の大好きなユダヤ3
by きゃみさん
今回で3回目を数えるユダヤ人についてレポートだが、今回はどこまで話しを進めれるだろうか?前回までの話は中世欧州ではどこにいてもユダヤ人はキリスト教徒にいじめられていたと言う話だったが、今回は近代においてもやっぱりいじめられるユダヤ人についてレポートしようと思う。
この間は14世紀欧州でペストが大流行した時、多くのユダヤ人が中欧や東欧に逃亡したという話をした。その後ユダヤ人社会ではルネッサンス期にイタリアとドイツでヘブライ語研究が進み、特にキリスト教社会の一部で聖書やヘブライ語の研究が行われるようになった。これがまた世界を一変させる大事件につながるからユダヤ人の歴史は面白い。このヘブライ語研究の結果として生まれたのが、あのルターの聖書中心主義、つまり1517年から起こった宗教改革であった。この前も書いたがルター自身、聖書のラテン語訳の誤りにきづいて、聖書をヘブライ語からドイツ語へ翻訳したのであった。
宗教改革が起こり、これでユダヤ人のカトリックによる迫害は終わったかというとそうではなかった。ルターは宗教改革の開始に当たって、ユダヤ人をキリスト教に改宗させようと試みたり、論文のなかでユダヤ人に対するカトリック教会の態度を糾弾した事もあった。しかしユダヤ人が彼にほとんど注意を払わないことがわかると。ルターはユダヤ人の辛辣な敵となり、多くの著作の中で深い憎しみを吐露した。
これが結局ドイツにおける反ユダヤ主義の確立に役立ったのみではなく、さらにプロテスタントとユダヤ人とを敵対させることになったのである。この結果は悲惨であり、宗教改革の忠実な支持者ドイツは、カトリック教会に負けず劣らずユダヤ人に狭量になり、ユダヤ人はプロテスタントとカトリックとの戦いのはざまに立たされて双方から迫害され、危うく1516年にドイツ皇帝マクシミリアン1世によって追放されるところだった。
しかし1648年までの三十年戦争や他の動乱期において、大規模な反ユダヤ騒動は一つもなかった。ただ、16、17世紀を通してカトリック圏であれプロテスタント圏であれドイツでは慢性的に儀式殺人の告発や、追放が行われていた。そして、そのことは1745年マリア・テレジアがプラハのユダヤ人に追放令を出したとき、その追放令に対して怒りの一大旋風がヨーロッパ中におきて、外交的圧力によってユダヤ人の帰還を認めざるを得なかった時まで続いた。
また、三十年戦争の頃からそれまでアラブとスペインにしか見られなかった宮廷ユダヤ人なるものが中欧では当然となっていた。こうした発展は19世紀のナポレオン戦争まで続いた。三十年戦争後のドイツは封建領主というよりは、ちゃんと宮廷をもった小王国の連合体というような政体になり、戦争で疲弊して財政的に困窮していた小国では宮廷ユダヤ人は不可欠の存在となり、財政官、銀行家、外交官、行政官、収税官などの地位についていた。彼らは一般のユダヤ人とは異なり様々な自由を得ており、彼らはオランダやトルコのユダヤ人の強力な商業会社と緊密な連絡をとり、軍事物資や消費財、贅沢品などの御用商人となった。彼らはドイツだけではなくその他の諸国にも現れ、その商魂や才能をフルに活かし、新たな商業経済及び銀行経済の基礎を築き、産業化に貢献して、近世における絶対主義国家の誕生を手助けすることになった。
彼ら宮廷ユダヤ人は立派な屋敷で豪華な暮らしを送り、まわりを金品で飾り芸術家などを庇護しながら、周囲の社会に可能なかぎり同化しようとした。しかし彼らはユダヤ人社会ではごく限られた存在であることには変わりはなく、他の一般のユダヤ人は小売商などを営みながら、たえず貧困スレスレに暮らしていた。
(ちょっと雑談)
彼ら宮廷ユダヤ人の活躍ぶりを少し紹介しよう。まず、英国ではエリザベス女王やクロムウェルの軍隊のパトロンは宮廷ユダヤ人であったし、オーストリアではハプスブルグ家がユダヤ人に5500万グルデン以上の借金をしていたし、さらには宮廷ユダヤ人であるザムエル・オッペンハイマーが死んだ時には、オーストリア国家と帝室は破産してしまったほどであった。
さて、こうした社会情勢の中でユダヤ人は文化的にも変化してきた。それが18世紀に始まったハスカラー運動(ユダヤ啓蒙主義)である。ハスカラー運動はプロイセンを中心にモーゼス・メンデルスゾーン(孫は音楽家の)が始めたものでユダヤ人が迫害されるのは自分達にも原因があるかもしれないとして、あまりユダヤ人らしさを強調しないように、その社会に溶け込んで生活をしよう。と言う考えのもとで、キリスト教徒と十分わたりあって行くためにユダヤ教育制度の近代化を推し進めた。1778年には自由ユダヤ学校をベルリンに創立し、その授業はイディシュ語(ドイツ語とヘブライ語とのあいのこ)ではなく、ドイツ語で行われた。
こうした運動は機関紙の発行とともに知識人の間に広まり、正統派ユダヤ教から反対されたが、新しい種類のユダヤ人の出現のために重要な役割を演じた。しかし同時に、社会に同化するためにキリスト教に改宗する者も増加した。このハスカラーによってヨーロッパのユダヤ人はその権利を獲得するための長く困難な闘いをはじめたのである。
(ちょっと余談) このモーゼスと言うおっちゃん18世紀ベルリンが生んだ最大の哲学者と言われ、ユダヤだけでなくドイツの啓蒙化にも一役買っていた。この人の影響はシラーやゲーテ、カントにまで及んだそうな。
さて中欧の話ばかりしていたので東欧の方にも目を向けてみる。元来東欧にはハザル王国なる国があって、その国は紀元6世紀からコーカサスからヴォルガやドン河にまたがる領土をもっていたそうな。そこは740年頃にブラン王と多数の臣下たちがユダヤ教に改宗し、以来ユダヤ人のみが王位を継げないことになったというちょっと変わった国だった。そのハザル国も965年に滅亡したらしい。
その後の東欧だが十字軍の時代からドイツのユダヤ人にとって移民先として常に選ばれた場所であった。そこは、迫害や追放からの避難所があり、貿易や経済の才能のある勤勉な開拓者を欲していたハンガリーやボヘミアなどの後進国が提供してくれた自由があった。しかし14世紀末から15世紀半ばにかけて、こうした国々、とりわけポーランドはもはやユダヤ人にとって安全ではなかった。
当時のポーランドは国境線は黒海に達し、1569年にはリトアニアも併合して大国になっていた。ポーランドは12世紀からユダヤ人を受け入れはじめ、その後の数世紀の間にユダヤ人移民の数は増大した。何故ポーランドに多くのユダヤ人が逃げ込んだのかというと、1264年ボレスワフ4世によってユダヤ人保護法が発布され、1334年にはカシミェシュ3世によってユダヤ人の生命、財産の保護、移動の自由を認めたこの法が確認されたからである。ユダヤ人は西はダンツィヒから東はキエフにいたる多数の村々に散らばって暮らした。
ポーランドのユダヤ人は西欧のように職業に制限がなく多くの者は職人や小売商として働いたが、あらゆる職にユダヤ人は従事することができた。その中でももっと力のあるユダヤ人は産業や収税業務、領地や鉱山の管理、貿易などで活躍していた。とはいうものもユダヤ人はポーランドにおいてもキリスト教徒の敵意や悪意から逃れることはできず、時には王も不本意ながらユダヤ人の商業を規制することもあった。また、教育制度も完備され奨学金制度まで存在しユダヤ人の間ではどんなに出来が悪くとも最低限のユダヤ人教育が受けれた。
このようなことから、ポーランドはユダヤ人の中心地となっていた。ポーランドのユダヤ人人口は16世紀初めには5万人であったものが17世紀中頃には50万人にまでなっていた。さらには16世紀中頃から18世紀初めまでにかけてユダヤ人は四国協議会(もとポーランドの大ポーランド、小ポーランド、ポドリア、ヴォリニア)によって自治権までも認められていたのである。
ポーランドのユダヤ人の最盛期は17世紀の前半であった。しかし1648〜49年におこったウクライナのポーランド人に対するボグダン・フミェルニツキー率いるコサックの反乱によってこの幸せは突如として終わりを告げた。
ことのおこりは、カトリック教徒のポーランド人地主たちがロシア正教徒のウクライナ人農民に対して行った残虐行為と専制的抑圧に対しての反乱であった。ウクライナの農民にとってユダヤ人は専制的貴族の代理人であった。現にユダヤ人は農民から集めた極端なまでの高率の地代収益によって、宿屋やその他の事業を経営しており、税金を直接集めるのもユダヤ人であり、これもまた憎しみを買うものであった。したがって、暴徒の一番の目標になるのはまたもやユダヤ人であった。
フミェルニツキーがタタール同盟軍とともにポーランド軍を破ってしまうと、ユダヤ人の大量虐殺が始まった。その死者の数と残虐さは過去の十字軍とペストの時代に行われた迫害を遥かに超える恐ろしいものであった。1649年一応の和平が結ばれたが、今度はロシア皇帝と手を結んだフミェルニツキーが1654年また戦争をおぱじめた。ロシア軍がポーランド東部地域、白ロシア、リトアニアを越えて前進するごとに、ユダヤ人は大虐殺もしくは追放処分にされた。
さらにさらに悪いことには(本当にユダヤ人はついてない)、1655年にスウェーデンのカール10世が大・小ポーランドを侵攻してきた後、ポーランド軍は領土を回復したが、彼らはユダヤ人の裏切り行為に激怒しそして先にコサック兵やロシア兵が犯したのと同様な虐殺行為をおこなった。
これらの虐殺により実に1648年から1658年までの間に約30万から50万人ものユダヤ人が命を失い、700の共同体(東欧ではシュテトゥルという)が消滅またはそれに近い状態に追い込まれた。これらの悲劇の結果、かつては裕福で数も多かったユダヤ人共同体は多くが破壊され貧困になり、ユダヤ人たちは、オスマン=トルコや、パレスティナ、そして何世紀か前にねこそぎ追放された西欧の各国にさえ、集団移住をはじめたのである。
(ちょっと雑談)
ポーランドに残ったユダヤ人は彼らの経験した恐怖から神秘主義に陥った。彼らの間では宗教的敬謙主義や偽メシアが跋扈し、この間のレポートでやったトルコの偽メシアのツヴィノ生まれ変わりと名乗る者まで現れた。しかしこの神秘主義から一つの現在まで続く宗派(?)が生まれた。それはハスィディズムである。このハスィディズムの創始者はバアル・シェーム・トーヴ(イスラエル・ベン・エリエゼル)というおっちゃんである。彼は心霊治療で人気をはくし、心から神に祈ればいい、敬謙さえあれば飯を食ってるときでも、S◎Xやってる時でさえも神を体験できると説いた。彼の教えは急速に低中産階級の間に熱烈に広まった。これに対してミトナグディームという反対運動も起こったが結局和解し、彼らの習慣と儀式の多くがやがて正統として受け入れられていったのである。
さて、この後の東欧のユダヤ人についてだが、18世紀後半に相次いだポーランド分割によりほとんどのユダヤ人がロシア帝国に属することになった。もともとロシアではユダヤ人に永住権は与えておらず、ひどい仕打ちにしばしばあっていた。ロシア帝国はユダヤ人の増大に対して19世紀の初めにその領内の西部と南部にユダヤ人定住許可区域を設けてユダヤ人を中央地域から追い出した。まあ巨大なゲットーであると考えてもらっていいと思う。
ユダヤ人の生活はロシア皇帝が交代するたびにますますひどくなった。それが最もひどくなったのがニコライ1世の統治の時期(1825〜55)であった。ニコライ1世は極端な反ユダヤ政策を押し進め、当時のユダヤ人に関する法の約半分、約600もの反ユダヤ勅令を出した。その中には姓の強制、民族衣装や髭を生やすこと(髭に関しては第一回のレポート参照)の禁止などがあったが、それよりチョ〜強力なのは、8歳から12歳までのユダヤ人男子に“31年間”の兵役という苛酷な義務を課したことであった。彼ら児童新兵は宿営兵と呼ばれ、定住許可区域からはるかに離れた中央アジアなどの駐屯地で6年間の訓練を受け一般には二度と両親とは会えなかったといわれている。しかしユダヤ人の親の心配は兵役に取られるというだけでなく、若い少年たちが辺境の地でユダヤ教の戒律に反する行為や食事を取らされることであった。宗教民族ユダヤ人にとって戒律を守れないことは民族の尊厳にかかわることなのである。
こんな絶望的な情勢の中でユダヤ人の間には、ロシア人と同化して同権を獲得してこの状態から抜け出そうとするハスカラー運動者や、伝統的なユダヤ人生活を厳格に守り、外部世界との文化的接触を一切拒絶するようハスィディズム信奉者が現れた。しかしユダヤ人の大半は自分の運命をあきらめていた。
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