書感No.13

 

次に取り上げるのはとある小説の一節です。

 

床の真中に大きな懸物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。どうも下手なものだ。あんまり不味いから、漢学の

先生に、なぜあんなまずいものを麗々と懸けておくんですと尋ねたところ、先生はあれは海屋といって有名な書家のかいたものだと教えて

くれた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。

 

まぁ、世にいう書家に対する世間の評価・反応はこういうものでしょう。

 

話はずいぶん変わります。音楽家の人、特に楽器を演奏する人は、無論自ら楽器を奏でますが、では自分で作曲もするでしょうか?もちろん

する人も当然いるでしょうが、100%ではないと思います。画家の人は、自らのテクニックを磨くために、模写をすると思いますが、作品として

模写を扱うでしょうか?

これを踏まえて書道の話です。書道では技法を学ぶために臨書というものがあります。しかし、それはただ単に字習いに止まらず、それ自体

作品として完成されたりもします。確かにその技法を忠実にまねて、それを再現するにはそれなりの力がいると思いますが、あらかじめ完成

図が出来上がっているといえば出来上がっている訳で、完璧なオリジナルとは言いがたいものがあると私は思います。じゃあ書道における

オリジナルってなんだ、というのは私には難しいのでパス。

それでは書道における「作品」とはなんでしょうか。自分の感動した歌の歌詞を書くことでしょうか。今の自分の思いを自作の詩にしてそれを書くこと

でしょうか。好きな漢詩を見た目に面白くするために字書片手に書くことでしょうか。はたまた言葉の意味性を重視するのが文学であるならば、言葉

の造形性に重きを置いたのが書道なのだから、読める読めないなんて関係ない、若さあふれんばかりに大きな筆に墨をたっぷりつけて大きな紙の

上を縦横無尽に暴れ回ることでしょうか。

私も今までこれら一通りのことをやってきたつもりですが、ただの一般庶民の私ごときが書いた戯れ書よりも、アイドルのサインのほうが世間の評価

は1万倍良いわけで、月とすっぽんなわけですよ。やれ筆法だの章法だの墨だの紙だの何かまったく関係ない。問題にすらならない。大切なのはそ

の書かれたものではなく、誰が書いたかということではないでしょうか。

過去の書道史の中で、名筆で持ってその地位を確立した人がもしかしたらいたかもしれませんが、多くは政治家など歴史の表舞台に立ってからそ

の書も注目を浴びたのではないでしょうか。書道とは目に見える具象的な紙に書かれたものよりも、その背後にある人格や世間的評価にこそ自然

と注目されるのだと私は勝手に思います。正直な話、日展入選者による書道展より、アイドルたちが書いた日記とかのほうが100万倍興味あります

よ。例えがあんまりよくないですけど、言いたいことは分かってもらえると嬉しいです。

あと、これも何回か言っていますが、書道に携わっている人は「活字、パソコンは駄目だ!」なんて言ってはいけません。第一そんなメッセージを

活字で言っているところにすでに活字に支配されている証拠じゃないですか。今さら活字を否定するのはナンセンス。何ぞ必ずしも雕宮を穴処に易

へ、玉輅を椎輪に反す者ならんや。ってやつですね。

それとこれはかなり自虐的というか自ら首を絞めかねない内容で、周りに敵を作ってしまうような発言ですが、前回私は世の中は「書道」ではなく、

「書写」で事足りるということを書きましたが、とりあえず今でもそう思っています。つまり国語科の仕事の範疇で収まってしまうような気がします。

それ以外は史学、文学、美学などでカバーできると思うんですがどうですか?やっぱり東宮はアホですかね。でもよほどの意見を聞かない限り私

はこの考えを変える気はさらさらないです。今まで書道を少なからず学んできた現時点での答えですから。もし大学で書道を専攻している人がこの

文章を読んでいて、少しでも自分なりの書道観というものに刺激が与えられれば幸いです。あと、これもいつも言ってますが、このページはただ自分

の駄文を羅列しているだけなので、賛同してくれるのはまだいいのですが、掲示板とかでけなさないで下さいね。落ち込むから。どうしても東宮の考

えは許さないなんていう珍しい人がいましたら、住所、氏名、年齢、職業、電話番号、このホームページのいいところ、東宮の素晴らしいところをご記

入の上 east_palace@hotmail.com まで送って下さい。ただホットメールは滅多に見ないので気をつけて下さい。好了、それでは今回はこんなところで。

 

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