書感No.16

 

 前回のNo.15で偉そうなことを言いましたが、早くも挫折です。やはり己の未熟さをただただ痛感するにとどまりました。今の心境としましては、

他人の尻を拭く心配をする前に、まずは自分の尻をちゃんと拭きやがれ

 といった感じでしょうか。で、今現在一番興味があることを書きます。

 一つは何度も言っているように、「書道が人を作るのでは無い、人が書道を作るのである。」ということです。No.14でも主張しましたし、今でも

そう思っています。まだこの考えを崩すような事件は起っていません。しかし、現状のいわゆる書道界はまったく逆です。だから私は興味があり

ません。

 わかり易く言えば、芸能人のサインはみんなが欲しがり、どこの馬の骨が書いたか知れないすっげぇうまい九成宮の臨書は「へぇ〜すごいね」

と、トリビア的な評価で終わるということです。

 書道で地位やお金や名誉を手に入れることは、現在の社会では可能です。それもいいでしょう。きっと悪くないです。だっていいことばかりだから。

しかし、それが書道の歴史ですか?一般市民が書道やって偉くなりました?違うでしょ。書道の大家といわれる人は、その前提に血筋や高学歴や

学識があったはずです。今は無い。全然無い。だから私は興味が無い。そんな人たちが開くお稽古発表会だから見に来るのは弟子だけ。そんな

のつまらない。書道を自己の表現方法と捉えるのも限界を感じています。入場料無料で、いかに純粋に書道の現状を見据え、そして未来を展望

していても、やはり世間はの評価は冷たい。むしろ温度差は広がるばかりのような気がします。それは私には耐えられません。

 だから私は敢えて、平成という世の中には、書写の範疇で十分だと思うわけです。年賀状が筆文字で書ければいいじゃない。ノートがきれいに

書けたらいいじゃない。結婚式やお通夜でかっこよく名前が書けたらいいじゃない。冗談じゃなくて本気でそう思ってます。

 書道が日本再生の鍵をにぎっているなんて真剣に考えている人は絶対変人です。まぁ自分のことを変人という人が総理大臣をやっているご時世

ですからこれはむしろほめ言葉になってしまうんでしょうが、真剣に考えているならぜひその結果を提示してほしい。決して自己満足でなく、これなら

社会貢献できると胸を張って自信を持って。でもきっとできないでしょうね。少なくとも私は出来ない。だから私の墨と筆と紙を使って作った物質は

「書道に似て非なるもの」と認識せざるをえない訳です。これが平々凡々な庶民の私の感覚です。若気の至りで多少背伸びして芸術家を気取ったり

しましたが、それは恥ずかしい過去です。否定はしませんが、敢えて肯定できる材料もありません。まぁそんなこと考える暇な時間がある平和ボケ

した日本という島国に生まれたことを感謝するのみです。合唱。じゃなかった、合掌。

 

―BACK―