書感 No.4

 

  今回は、先日開講された石川九楊先生の集中講義について、東宮の感想、私見を書きたいと思います。断っておきますがあくまで私見

なので、みなさんに私の考えを強制するようなつもりはまったくありません。そもそも私が持っている影響力など微々たるものなのでいらぬ心配

ですが。しかし、どこか一部分でも共感していただけたら大変嬉しいです。

  石川先生は、「書は書きっぷりだ」とおっしゃっていました。「大切なのは何が書かれているかではなくどう書かれているかだ」とも

おっしゃっていました。これに対して私は、「何が書かれているかこそ大切なのでは?」と質問しましたが、それでも先生は書きぶりが大切なのだ、

と強調されていました。私はこれには今でも納得いきません。石川先生の作品は、その書きぶり(いわゆる筆蝕でしょうか)を前面に出している

ように思われます。そして先生はご自身で、「抽象画として見てもいい」とおっしゃっていました。書が抽象画でいいのでしょうか?先生が主張する、

「書=詩」とするならば、とても矛盾しているように思えてならないのですが。

  あと、書きっぷりの話を音楽に例えると、サントリーホールまで行ってN響の演奏を耳栓をして聞くようなものだと思うんです。先生風に言うなら、

「音楽は何が演奏されるかではなく、どう演奏されるかだ」ということになりませんか?ヴァイオリニストが奏でる音ではなく、その「弾きっぷり」こそ

大切なのだ、ということにつながるような気がしてならないのです。実際に生の演奏を聞くという臨場感もさることながら、ひたむきに演奏する奏者

にも当然目を奪われますが、やはり第一にあるのはその奏者が発した音だと私は思うのですが。

  言葉や文字の基本的な存在意義は、「対象とする人に伝わってなんぼ」のものだと思うんです。もちろんその対象者には自分も含まれるとは

思いますが、自分にばっかりメッセージを送ってもしょうがないと思うんですよ。しかも臨書をして、今自分が何を書いているかも分からない、と

いうこともよくありますよね。法帖がないと何も書けないっていう状態。こういうのは私は厳密にいえば書ではないと考えています。『書感 No.3』

でも書きましたが、これはいわゆるお勉強、練習、字習いです。だから展覧会はしばしばお稽古発表会になります。その証拠に、感想の欄には、

「今回は線の勉強ができてよかったです」とよく目にしますよね。

  いいと思いますよ、線の勉強。大いに「書きっぷり」の技を磨いて下さい。ただ、そこがゴールでは決してないはずです。声楽でいうならいわば

発声練習の段階です。肝心なのはその鍛えた声で何をどう歌うかではないでしょうか。

  例えばあなたに突然、「何でもいいので何か喋って(書いて)下さい」と質問したらちょっと困りますよね。そりゃ困りますよ。逆にいつも何か

ブツブツ話していたら恐いですよね。これも前回の『書感』でも触れましたが、独り言は気持ちが悪い。その根拠は言葉には常にメッセージ性が

備わっていて、対象者を求めるからです。言葉や文字は、このメッセージ性が音楽や絵画にくらべるととてつもなく強い。だから音楽のコンサート

や美術館に行った時には「文字」で書かれた詳しい解説を見ますよね。抽象的な表現では満足がいかず、文字という具象物でその疑問点を補強

しているというわけです。逆に書の展覧会で解説を施すのにいきなり演奏を始める人がいますか?もしあったとしても、それは音楽が持つイメージ

という抽象的な部分を強調したにすぎません。

  さきほどもあったように、石川先生はご自身の作品を「抽象画」と口にされましたが、具象でしか表現されない書が抽象なわけがなく、そういう

意味で、やはり先生が主張され、実践されている「書きっぷり」をことさら強調するのは私にはどうも腑が落ちないのです。

  わざわざ書きたくもないのに無理して言葉や字を探して書く必要はどこにもありません。書きたくなければ書かなければいいだけのことです。

これって当たり前すぎてすごい馬鹿にしたような話なんですが、自分に言い聞かせるために敢えて書きました。この話を是非石川先生にも聞いて

感想をお聞きしたいと思うので、来年の集中の時にでも聞いてみます。それと、あまり今回の話と関係が無いのですが、今度の私の科展の

出品作品は、大学生活二度目の臨書です。今回は「(いわゆる一般社会で考えられている)臨書作品の可能性を探る」というのと、「書における

紙と表具の重要性」の二つがテーマです。

  こうやって偉そうに御託並べるのは誰でもできますからね、一度作品でしっかり訴えないと。

  

 

 

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