書感 No.6

 

  『書感 No.5』の中で、「筆を持つ意味があまりないのではないか」という意見を出しておいて、その根拠を明確に示していなかったので、ここで

改めて書きたいと思います。

  現代において、筆記具といえばシャープペンシルやサインペン、ボールペン、それとこれはあまり日常では使う人は少ないかもしれませんが、

鉛筆などがあります。いずれも硬筆といわれるものですよね。それに対し、「書」というと、筆に墨をつけて書く、というのが一般的な考えですよね。

そして現代において筆は非日常的な筆記具です。でも、いわゆる古典が書かれた当時としては筆は日常生活の一部だったわけです。このギャップ

を考えることが私はとても大事なんだと思います。

  少し話は変わりますが、楽器はほとんどその形を変えずに今に伝わっていますよね。それは作られた当時すでにほぼ完成され、それ以上

改善の余地がなかったからだと思われます。ところが言葉は時代時代によってその姿を激しく変えていきます。他国間で言語が異なるというのは

当然ですが、中国のように一つの国で多くの言語を持っていたり、日本でも北海道から沖縄まで様々な方言を持ち、その土地の風土を色濃く反映

しています。そしてその言語を目に見える形で留めたのが書です。これは私の勝手な推測ですが、古典が書かれた当時の人は筆を持つことに

美意識を感じていたとはあまり思えません。なぜなら日常的な作業すぎるからです。普段言葉を話す時に、美しい声で話すことを取り立てて意識

しないようなものだと思います。今だから空海の書は素晴らしいとか良寛の書は趣があるとかいいますが、それは大方その「姿」を対象として

いっているわけですよね。力強い書、優美な書、荘厳な書。みんな見た目の問題です。その書かれている内容に言及した鑑賞の仕方を私は

あまり聞いたことがありません。これが私の現代の書における非常にネックな部分です。

  臨書をするとき、自分自身何を書いているのか分からない。法帖がないと書けない。これは私の感覚からするととってもおかしいです。またまた

変な例かもしれませんが、私は留学中にフランス人の方とちょっとお話したことがあります。そしてフランス語を話してもらいました。すっごく

美しかったです。魔法の呪文を聞いているというか、言葉に魔力があるような、そんな不思議な感覚がしました。フランスでは、きれいにフランス語

を話す人は尊敬されるというのを以前耳にしたことがあるのですが、これは本当だなぁ、と思いました。

  だからといって、私が意味も分からずに響きが美しいから、という理由だけでフランス語を練習して、みなさんの前で声に出したらどう

思いますか?「へ〜、きれいだなぁ」くらいの感想しか持ちませんよね。そして、「それってどういう意味?」って聞きたくありませんか?相手の意図

することを理解したい。それは人が生きていく上での半ば本能的な作用だと思います。それを発する側は無視して、「意味なんかどうでもいいんだ、

この美しい声にだけ耳を傾ければいいんだ!」と言われたらもう聞き手としてはお手上げですよね。このお手上げ状態が書の現状だと私は

思っています。

  たまに、「東宮くんってさー、中国行って中国語勉強してきたんだよね?何か中国語で話してよ」と言われることがあります。この時私はすごく

困ります。その理由は二つ。一つは、いきなり話せと言われても話題がない、ということ。二つ目は、聞く側が中国語をあまり勉強したことがない

から、話したところで理解されない、ということの二点があるからです。

  言葉や文字の存在する絶対的な前提になるものは、「話さなければならない」、「書かなければならない」、そして、「伝えたい人に伝わらなくては

ならない」ということだと思います。これを無視すると、私がよく言っている、「自分勝手な独り言状態」になるわけです。

  フランス語を聞いて美しいと思った当時の私は特別意識してそう思ったわけではありません。それはフランス語を言語としてではなく、ただ

の音として聞いていたからだと思います。本能的に心地よい響きだったから本能的に反応したのだと思っています。これは音楽的な評価の仕方

ですよね。音楽は芸術のための芸術です。言語や書のように人と人とを結びつけるコミュニケーション能力を持つことを前提としていません。

だから音楽は簡単に国境を越えるわけです。言葉は通じなくても音楽で通じ合える、というのは人種を超えて「ヒト」として向き合うからでしょう。

  書は元々芸術的要素は持っていないのではないか、と私は思います。歴史の教科書で空海の名を目にする時は、真言宗の開祖であるという

のがまず第一だと思います。風信帖を書いたということは、いわば空海を紹介する上での説明的な事柄に過ぎません。それに対し、例えば

ベートーベンは、「当時活躍した有名な音楽家」といった感じで、あくまで芸術家として記述されていると思います。ベートーベンが当時の時代背景

を背負っていなかったといったらもちろん語弊があると思いますが、歴史と文化を担っていたという点では空海のほうがはるかに上だと思います。

これは空海に限らず、日中問わず名筆と呼ばれるものを書いたすべての人に共通することだと思います。その多くが政治に携わっており、公文書

や手紙という形で自ら訴えたかった事を切実に書き記しています。だからこそ後世まで語り継がれる、という点は分かります。では私たちはその

形だけを習うだけでいいのでしょうか。「古人の跡を求めることなかれ、古人の求めたるところを求めよ」とは有名な言葉ですが、私はあまりにも「跡」

を求めすぎているような気がしてなりません。古人が歩んできた跡を見つめることはもちろん大切なことですが、そこで終わっては絶対にいけない

はずです。私はその意識が強いのでどうしても今すぐに前に進みたがってしまい、書かれたものを見た時にいつも自分の勉強不足さに愕然と

してしまいます。

  今回も筆を持つ意味がないのでは、という問いに対する答えになっていないようなので、次回にでもうまく言えればと思います。今回に限らず

この「書感」シリーズはほとんど修正無しの思いつきで書いているので、文脈などは支離滅裂もいいところなのですが、若気の至りということ

でご容赦下さい。

 

 

 

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