書感 No.1

 

 書道に関して、私はやはりどうも心のどこかで「やらなければならない」、「好きにならなければならない」という外的な作用によって取り組

んでいるように思う。いつもいつもいっつも思うのだが、書道なんかやらなくたって人は生きていけるわけで、私はそういうのは有閑者の戯れに過

ぎないと思うのだ。書は文化を担っていて、東アジア特有の芸術で、コレヲ継承シ、発展サセナケレバナラナイ。といわれても全然ピンとこない。

そんなこといったって私たちは日々ハイテクノロジーの科学の恩恵に与っているわけで、パソコンや携帯無しでの生活は考えられないわけだ。

だからこそ手書きの温かさを大事にしよう、というのは何とか分かる。でも、だからといっておばちゃん方が美術館でお稽古発表会をするのは

とても書を芸術と呼べるものではないはずだ。

  私は書道に関して極々私的な考えだが、「書壇廃止」と「書道展覧会廃止」の二点が書道の生き残る道のように思う。この二点は書道に

携わっていない圧倒的多数の方々への配慮の意味を込めての提案である。「書は実用性と芸術性の二点を備えた極めて稀な芸術である」

という言葉を聞く。実用性は分かる。では芸術性ってなんだ?師匠の字のまねをして、師匠に媚びて褒められ認められ、公募展で賞を取り、

周りの人にチヤホヤされることが芸術か?金と私欲と権力に満ちた、典型的な日本の腐敗構造そのものではないか。

  同じ志を持ったもの同士が切磋琢磨して互いの腕を磨き、研鑽を積むということは素晴らしいと思う。でもなぜそこに利欲がからむのか

分からない。それが人間の性なのか。そういうことをやるのはまったくもって構わないが、影に隠れてひっそりとやってもらいたい。あたかも

それが書の全てであり、書の神髄というような考えだけはもってもらいたくない。

  今、仮に「私は書をやっています」という人の大半は、「それは書ではなくお習字ですよ」と言いたい。大方間違っていないはずだ。私もそうだ。

最近よく自覚するのだが、私がやっているのは字習いにすぎないとよく思う。漢文や漢詩の素養があるのはもちろん、古代中国の歴史的背景

(政治的制度や当時の流行思想、文化や風俗など)を熟知していなければそれは「書」ではないだろう。だって書は歴史を担ってきたと書壇の

お偉いさんは常々言っているではないか。紙と筆と硯だけで書に通じるわけがない。むしろ真に書を理解するならばいささか短絡的だが本を

読むことだと思う。

  書の発祥の地である中国で、日本の書道熱はかなり特異なものとして映るだろう。少なくとも私は今の中国は飯を食べるので精一杯の

ような気がする。近年目覚しい発展を遂げているのは事実だろうが、首都北京の天安門付近でさえ浮浪者の姿はあとを絶たない状況だ。

そんな社会状況の中で芸術云々を口にする余裕などどこにもないだろう。

  書の名筆と呼ばれるものは「書かなければならなかった」切実な思いがあったはずだ。政治的軋轢がその主だった理由だと思うが。

そういう精神の発露の一つの表現方法として書があったわけで、文字通り生きるか死ぬかの極致にいたから何百年経った今もなお人の心を

打つのだろう。今、書家と呼ばれている多くの方々はここまでの覚悟があって書に携わっているのか、大いに疑問がある。

 

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