西田幾多郎著作集、伝記、研究書などが盛んに出版されています。どうして今頃超難解で、とっくに終わった筈の西田幾多郎がブーメランのように戻ってきたのでしょう。それは、西暦二千年代を迎え、近代がまさに終焉しようとしているからです。今、時代が大きく変わろうとしているんです、国民国家が機能麻痺に陥り、財政金融政策の効果が極端に減少してしまったのは、国民国家の時代としての近代が終焉し、地球統合の新しい時代が始まりつつあるからなのです。諸君は新しい時代を切り拓くパイオニアにならないといけないんですよ、その自覚がありますか。そんな現在、日本近代を代表する西田哲学を見直して、日本近代の意味を問いなおそうという試みが行われているんです。
それに西田哲学は東西の思想を統合しています。東洋的な無の思想と西洋の弁証法や生の哲学が見事に統合され、仏教とキリスト教が活き活きと対話しているんです。また個と宇宙を統合する全体概念を取り戻しています。つまりちっぽけな「個」が「個」のままでユニバーサルな「一般者」の現れでもあるとされています。それを展開するのに弁証法をダイナミックにつかっているんです。この哲学的ロマンティズムに、いまさらながら驚嘆して、見果てぬ青春の幻を追っているのかもしれません。
『西田哲学入門講座』という全体のテーマにそって、連続講義をします。一応対象は大学一・二回生です。高校で倫理をとっていなくて、哲学や倫理学に関する予備知識や興味もほとんどない学生が大部分だということを前提に講義しますから、安心してください。ですから高校生にも分かる事を目指します。西田幾多郎の文章は超難解ですから、直接の引用や引用文の解釈論議などはなるべく避け、西田哲学とはどういうものかというイメージを掴んでもらうことを目標にします。それでもなかなか分かりづらいと思いますので、質疑応答の時間を十分とることにします。
西田幾多郎の伝記は後回しにして、先に西田哲学の概要をつかんでもらうことにします。西田幾多郎の単行本としては処女作で、しかも最もよく読まれていたのが、『善の研究』です。西田は1870(明治3)年生まれなので、『善の研究』が弘道館より出版された1911(明治44)年は西田が満四一歳になった年です。その前年に京都大学の助教授に任官していますが、この内容は、第四高等学校での講義で練り上げてきたものです。
西田の講義は、草案つまりノートがあって、それにそって話をしました。つまりそのノートに書いてあることを、その場で思索しながら展開したんです。だから単純に読み上げるというのではなかったのです。私の学生の頃、1965年頃の講義でもノートを読み上げるだけの先生がおられました。馬鹿丁寧に点や丸まで読み上げる先生も、まれにおられたんです。それならその先生が書かれた著作を直接読んだ方が手っとり早いし、自分で読むほうが分かりやすいですよね。
第四高校の西田の講義には「純粋経験」が出てきて、これが色々説明されているんですが、学生たちはチンプンカンプンだったんです。西田の弟子である下村寅太郎著『西田幾多郎―人と思想―』(東海大学出版部、48頁〜49頁参照)によりますと、当時の四高の二年生だった小笠原秀実が困り果てて、一計を案じたのです。西田の講義ノートを借り受けて『西田氏実在論及び倫理学』を印刷して皆に配ったということです。小笠原は雑誌部の委員だったので、それができたのです。それ以降西田は雑誌に掲載した論文なども印刷して、学生に配付してそれを授業で読ませ、解説するような授業をするようになりました。
西田のテキストを読んで置かないと、講義の内容は全く分からなかったと思います。おそらくテキストを読んでいてもよくは分からなかったでしょう。でも当時の学生はそこに深い真理が書かれてあり、それを掴むことで人生の深い意味を知ったり、世界の新鮮な見方を知ることができるかもしれないと、それこそ自らの無限の可能性を託して、真剣に読んだのです。ですから分からないなりに、何か大切なものを与えられた気がしていたのです。
それに西田の講義の魅力は、何といっても今、ここで哲学しているという臨場感にあります。哲学の内容を出来合いの知識として教えるのではなく、テキストを素材に教壇を借りて西田自身がそこで全身全霊で哲学しているわけです。学生達の眼前で西田が世界と格闘し、一般者(ユニバーサルなもの)と一つになって、「―――であるのである」「―――であらねばならない」と魂の底から生命の言葉が響きわたるのです。学生たちは此処が今世界で最も深遠な場所となっていることを、膚で感じ取っていたのです。その感動があって、西田が京大に移る前に一年だけ教鞭をとった学習院の教え子たちが、西田を慕ってたくさん京大に転学したんです。彼らはエリート華族の子弟ですからね。近衛文麿・木戸幸一などという後の政界の指導者などもその中に入っていて、そのことが西田の晩年に大きな影響を与えるんです。