デカルト哲学入門

 ロックは、大陸合理論の代表者デカルト(1596〜1650)の『方法序説』に出てくる、先天的観念を批判したのです。デカルトは「神」という観念は先天的だと主張していたのです。デカルトの『方法序説』に対する批判は、西田の<純粋経験論>の理解にとっても大切ですから、デカルト哲学について簡単に解説しておきましょう。この講義はあくまでも高校で倫理の科目をとっていない、哲学倫理思想に関してはほとんど予備知識がない学生を対象にしていますので、デカルトなんて常識的な話はもういいから、早く「純粋経験」について説明してくれなんて、そんなにあせらないでください。「急がば回れ」ですよ。経験論と合理論の対立を踏まえておけば、近現代思想全般が分かりやすくなるのですから。
 近代は科学的認識を拡大しようとします。コスモス(世界)をすべて科学的に認識し尽くそうとしたのです。そこでデカルトなど大陸合理論の哲学者達は真理の体系を演繹法で樹立しようとしました。既成の与えられた古代や中世の学問は独断論に満ち満ちていて信用できません。真理の体系は絶対確実なものでなければならないわけです。それには出発点に絶対確実な知識が置かれるべきです。少しでも疑わしい知識は、一応非真理として退けた上で、絶対に疑えない自明の真理を出発点に置こうとしたのです。このやり方を「方法的懐疑」というのです。
 デカルトはまず「感覚的現実」を疑いました。目撃証言というのがあり「確かに見た」なんていうことが一つの証拠になりますが、しかし見間違えということも良くあります。いわゆる超能力現象といわれていることも、すべて手品で本当に起こったように見せられるらしいですね。つまり感覚的現実を信じたら騙されてしまうことになります。次にすべての数学的論証も間違う可能性があるので、偽なるものとして投げ捨てます。ガリレオ(1564〜1642)は「二等辺三角形の両底角は等しい」という定理を、人間においてだけではなく、神においても真理だとしましたが、そういう簡単な論証もあれば、「ピュタゴラスの定理」のような難しい論証もありますね。難しい論証は、ひょっとしたらどこか間違っているかもしれないなんて思いますが、「対頂角は等しい」なんてのは全く自明の理のような気がします。でも人間だから論証には間違いがつきもので、難しいのが間違っていれば、それより少し易しいのも間違っている可能性もあるわけです。そして結局どんな易しい論証だって、間違っていないとは言い切れません。だから一応すべての数学的論証は間違っていることにするわけです。
 そして目覚めている時に持つすべての思想が、そのまま眠っている時にも現れますので、どの思想も真とは言えないとして、精神に入ってきたものはすべて真ではないとしたのです。ところがこうして何もかも疑っている私の存在は、私が疑っている以上疑うことが出来ないと、デカルトは確信したのです。そこで「コギト・エルゴ・スム(我思う・故に・我有り)」を哲学の第一原理に据えたのです。とするとデカルトによれば、このコギト(考える我)の実在は、私が考えていることだけに依存しているのであって、私が身体を持っていて、その神経中枢として脳髄があり、第三信号系が発達しているかどうかには依存していないことになります。ですからコギトはそれ自体で存在している精神的実体ということになるのです。
 この哲学の第一原理は、絶対確実な真理だとデカルトは確信したものですから、この原理から出発して、正しい推論を演繹していけば真理の体系が構築できると、デカルトは主張したのです。ところでコギトは、疑っている我ですから、疑っている以上不完全な存在です。そういう不完全な存在が存在できるのは、完全な存在、つまり神に支えられているからと考えざるを得ないと、デカルトは考えました。こうしてデカルトは、不完全な存在であるコギトから完全な存在である神を演繹したのです。
 実はこの神の存在証明は、懐疑論者に対してアウグスチヌス(354〜430)が行った次の反論と同じなんです。「懐疑論者達よ、諸君は神の存在を疑っているが、疑うことしか出来ない諸君も疑っている自分の存在まで疑うことはできないだろう。そういう疑うことしかできない不完全な諸君が存在しているのは、完全な神に支えられているからとしか考えられないじゃないか」とイローニュッシュ(皮肉たっぷり)に反論したのです。  デカルトは、もう一つの神の存在証明も行いました。疑っているコギトは不完全者であるから、不完全者が完全なものの観念を自分で形成することはできない筈だ、こうデカルトは決めつけます。ところが実際には人間は完全者である神の観念を持っている。この神の観念は、コギトが後天的に形成したのではないから、先天的に生まれる前から魂の中に神によって置き入れられていたに違いないとしたのです。だから魂に神観念を置き入れた神は実在する筈だということです。
 ここで先程のロックのデカルト批判につながるわけです。ロックは、幼児や東洋人、アフリカの黒人の例を挙げて、神が先天観念でないことを論証します。それはさておき、デカルトに従って、神が実在するとしますと、神は人間にいつも偽りの表象ばかり与えるとすれば、神が完全者であるという神の定義に悖ることになります。そこで感覚的な現実もコギトに「明晰かつ判明」であれば、実在性を持つと言えるとしたのです。こうして思惟が精神的実体であるのに対応して、その対象である物質も延長的実体だということです。「延長」というのは時間や空間の中で数量的な広がりをもつということです。
 こうしてデカルトは認識する側を認識主観とし、精神的実体が認識主体だとしたのです。この認識主観がどのような構造を持つ存在かは認識できません。だってそれはあくまで認識する主観の側ですから、客観化して対象的に認識することはできないのです。それに対して認識される側を客観として、延長的実体である物質的な存在を認識対象だとしたのです。精神と物質がこうして主観・客観の認識図式によって峻別され、物質を客観的に諸性質を持つものとして数量的に捉え、その運動や変化の法則を科学的に認識しようとする態度が確立したのです。

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