このように経験や知覚に即して世界を、人間に現れたままの姿で、それを実在として捉えようとする立場を「現象即実在論」と言います。経験を主観・客観図式に則って、客観的事物の現れとして解釈するのは間違いだという立場です。これまでの実験・観察の結果に基づいて、新しい帰納法で事物の運動法則を導いてきた経験論の立場は、現象の背後に客観的な実在が素朴にあると思い込んでいる素朴実在論だとして批判されるようになりました。事物を現象の背後にある客観的な実在として捉えるのは、事物が経験や現象の反省に過ぎないことを忘れた独断論だという批判です。
マッハ(1838〜1916)は、主観・客観図式を当てはめる前の感覚要素の複合こそが実在だとする立場から、意識から客観的に独立した事物を仮定する客観的実在論を批判して経験批判論を唱えました。このマッハの議論を主観的観念論として批判したのが、ロシア革命を指導したレーニン(1870〜1924)の『唯物論と経験批判論』だったのです。
レーニンは、主観に現れる現象や感覚に捕らわれて、客観的な事物の運動法則を解明しようとしなければ、現実的な矛盾と格闘し、世界を変革して人類を解放することはできないと考えていました。物事の本質は目に見えないわけで、それはある意味で個々の主観的な意識から独立しています。マッハ達の経験批判論は表面的な感覚や直接的な経験のレベルでしか世界を捉えないという意味で、主観的な観念論だと批判されたわけです。
しかしレーニンの議論にも強引なところがあります。<主観的な意識>や<客観的な事物>は、経験を後から反省することで、経験した主体と経験された対象の関係で経験を説明した結果の産物に過ぎないこと、その意味で元々は意識としては経験しかなく、両者とも経験からきていることを確認しておくことは大切です。そうでないとこれが客観的な真理だとして、経験からかけ離れた理論を押しつけられて、観念的な理論に振り回される危険性があるからです。実際に、ロシア革命のその後の展開で、客観的な真理を独占していると称して共産党の恐怖独裁が行われたのです。
それに客観的事物の諸性質も、感覚的な意識の内容を素材にして規定するしかありません。色や形や重さや匂いなどの感覚諸要素を素材にして、形状や働きを示すのですから。その意味で意識から客観的に独立しているという言い方にも、誤解が生じないようにする必要があります。個々の主観の意識からはある程度ずれているにしても、一般的な意識自体からは独立しているとは言えないわけですから。
「意識から客観的に独立した実在」として事物を捉えるのは、意識が生じる側の身体とその元になった感覚的な刺激の発生源は空間的に離れているという意味では、当然の事なのです。これに対してマッハ達経験批判論者が言うのは、「意識」を「感覚」と捉えますと、事物は「感覚諸要素の複合」でしかないから、「意識から客観的に独立した実在」ではないということになるのです。つまりこの論争では「客観的に独立している」という言葉の意味が共有されていないので、水掛け論になるしかありません。