ジェームズの根本的経験論

 西田幾多郎の「純粋経験」という用語は、直接的にはプラグマティズムの旗手ウィリアム・ジェームズ(1842〜1910)の「純粋経験」という用語から来ているのです。ジェームズは、1905年から1907年にかけて書かれ、死後出版された『根本的経験論』で、イギリス経験論の経験に還元する立場を徹底する根本的経験論(ラディカル・エンピリシズム)を唱えました。
 プラグマティズムの創始者パース(1839〜1914)は、人間を思考の連続として捉えました。そして思考は記号に他ならないから、人間は記号であると「人間=記号」論を唱えたのです。しかしパースはこの思考の連続を世界と混同することはありませんでした。パースによると世界と人間は神の被造物であり、人間は自らの思考によって世界を映すのです。プラグマティズム的に考えれば、神は人間の為に世界を創造された筈ですから、神が創造された自然の秘密は必ず知的共同によっていつかは明らかになるのです。このように、パースにおいては主観の思考に、客観的な実在が反映されるわけです。
 ジェームズの「純粋経験」は「意識の流れ」です。この「意識の流れ」は、パースの思考の連続とは違って主観的な思惟ではないのです。主観的な思惟が概念的カテゴリーをつかって反省する素材にする、「物」と「思考」が区別される前の、より直接的な生命の流れなのです。そしてこの純粋経験こそが、現実の世界を構成している最も根本的なものだと、ジェームズは考えたのです。ジェームズの表現ですと、〔純粋経験=意識の流れ=生命の流れ〕となり、意識の流れと生命の流れが同一視されていることが分かります。意識があるということが生きていることだとという考えが、前提にあるわけです。そうしますと、夢も見ないで熟睡していたり、植物状態になってしまいますと、もはや生きているとはみとめられないということになりかねませんね。これは「尊厳死」や「脳死問題」ともからんできますね。
 ジェームズは、主観・客観認識図式に基づいて、直接的な意識を解釈する前の純粋経験を反省し、経験している主観の側に「思考」を置き、経験的意識を対象として捉えた客観の側に「物」を置いていると捉えました。ですから、主観の「思考」や客観の「物」は、純粋経験の解釈の為の便宜的な機能的概念に過ぎないということになります。ですから思考の内容が、客観的な事物と一致しているかどうかを確かめることもできません。意識を超越した事物は存在していないのですから。そこでジェームズは既成の「知と実在の一致が真理である」という真理観を脱却して、「真理は有用性にあり」というプラグマティックな真理観を唱えました。例えば主観・客観的認識図式を超克したジェームズの立場からは、「超越的な神」というのは存在できません。神は人間の宗教的体験の中で感得されるしかない筈です。しかし「超越的な神」という観念が人間の精神生活に安心立命をもたらすなら、その信仰は有用性をもっいるだけ、真理性を含んでいることになります。

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