「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたい」という西田の思いには、主観の勝手な恣意を交えずに、素直に経験を受けとめ、感じるままに、あるがのままに生きてみたいという思いが込められています。「純粋経験」は東洋的な思想と親和的なターム(用語)です。西田が四高の教師時代に打ち込んだ禅は、無の境地に立って経験を素直に受け止めることを説きます。そして儒教の朱子学では、身を慎んで理を窮める「居敬窮理」を説きますが、物事を虚心坦懐に受け止めよということで、やはり純粋経験を重んじています。また日本思想の代表者とされる本居宣長の「もののあはれをしるこころ」というのも、素直に見たまま感じるままに生きることを説いていますから、純粋経験を重んじる思想だと言えます。西田の『善の研究』は単なる西洋哲学の紹介に終わらず、日本における最初の本格的な独創的哲学書との評価をかちえたのも、日本の伝統思想を踏まえていたからなのです。
では「純粋経験」という用語を西田はどのように展開しているか、『善の研究』から冒頭部分を引用して確かめておきましょう。
「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験そのままの状態をいふのである。例へば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいふやうな考えのないのみならず、此色、此音は何であるといふ判断すら加はらない前をいふのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である。」(『西田幾多郎全集』岩波書店刊、第1巻、9頁)
最近明治時代の文章の事を、現代文ではなく、古文として扱って、現代語訳を試みるようになっています。この文章などは私には全く現代文にしかみえませんが、分かりやすいデスマス調の文章に直しておきましょう。
「経験するということは、事実に接して、事実をそのままに知るという意味なのです。その際、事実を自分の思惑や都合でごまかそうとする小細工をしないで、事実を率直に受け入れて、事実をありのままに知るのが本来の経験なのです。わざわざ<経験>の頭に<純粋>をつけて<純粋経験>というわけはこうです。普通<経験>と言っている人は、経験の本来の意味を軽んじて、経験をありのままに受け止めず、自分の身勝手な思想を交えて事実を歪めています。それで<純粋経験>と表現することで、少しも事実をあれこれ考えて歪めたりしないで、ほんとうにまっさらな経験そのままの状態を意味しようとしたのです。例えば、色を見たり、音を聴いたりしている刹那には、ただ色が見え、音が聞こえているだけです。まだこれが外物の色だとか、外物が出している音であるとかの外物の作用であるとは考えません。またこの色を見、この音を聞いているのは自分だということも考えません。それだけでなく、色を見ていても、この色は何色だとか、音を聞いていてもこの音は何の音だとかも判断しないのです。そういう反省的な判断を経験に対して加える前の状態を<純粋経験>というのです。ですから純粋経験は、反省を加えた間接経験ではありません。直接経験と同一なのです。自己の感じたままの意識状態をそのまま経験した時は、まだ主観も客観もありません。知識とその対象とはまだ未分化で、まったく合一しています。これが経験の最も新鮮でいい状態なのです。」