純粋経験に含まれるもの

 では反省を加える前のありのままの経験としての、事実そのままの現在の意識である<純粋経験>には、いったいどのような精神現象が含まれるでしょうか。まず<感覚>や<知覚>です。たしかに<感覚>や<知覚>は反省を加える前のありのままの経験ですね。反省的な思考とは違います。ところが西田は、すべての精神現象が<純粋経験>の形において現れるとしています。西田は、<記憶>も、過去の意識が直に起こったものでもなければ、過去を直覚する(直観的に覚る)のでもないといいます。記憶を過去と感じるのも現在の感情なのです。そして抽象的概念も超経験的なものではないとします。例えば「三角形」という概念も一種の現在意識だと言うのです。その理由は、1つの三角形を想像しながら、すべての三角形の代表とする場合、この三角形は1つの<感情>にすぎないということです。
 この辺りの議論は何か狐につままれたような気がしますね。だって西田は<純粋経験>をありのままの事実を、そこに思慮分別を加えることなく、そのまま受け止めることだとしていたのに、その舌の根も乾かないうちに、記憶を取り出したり、抽象的な概念をつかって物事を理解するのも、純粋経験に入るというのですから。もうついていけないやと思われませんか。
 ところで西田はこう主張しているんです。「しかし余は凡ての精神現象がこの形(純粋経験ー著者)に於て現はれるものであると信じる」(10頁)ということは純粋経験でない思慮分別や反省に伴って現れた意識であっても、意識の個々の要素として思い浮かんでくる表象や概念は、それだけとれば経験であって、直接的な現在の意識だからやはり<純粋経験>に含まれるんだということです。つまり意識現象はすべて純粋経験に含まれるのですから、最初に純粋経験がありますと、それに関する反省的な意識は間接的な意識であり、純粋経験ではないんですが、元々純粋経験の自己展開なんです。だって西田は「純粋経験を唯一の実在として展開」しようとしているんですから。矛盾していますが、純粋経験じゃない経験なんてないということです。純粋経験じゃない形をとっても個々の要素は現れとしてはやはり経験であり、それをそのまま受け止めれば直接的な現在の意識であり、純粋経験なんだということです。
 そこで西田は意識の縁暈(ふちどり)も、直接経験の事実に入れると、経験的事実の間の諸々の関係の意識だって、純粋経験に入ってくるというわけです。例えばチョークのふちどりは黒板とします。チョークの意識に黒板の意識が伴ってきます。そうするとそれと教師や学生、机など意識がついてきて、教室や大学という関係の意識が生じます。こういう関係づけは反省的な意識であり、間接経験なんですが、教室や大学という関係概念はまたそれ自体、統一性を持っている現在の意識として、ありありと純粋経験で迫ってくるわけです。
 こういう矛盾したようなことを西田は四高や学習院や京大の教室で語っていたんです。学生たちは狐につままれながら聞いているんです。西田は学生に通じるかどうかより、きっと自分が納得できるかどうかが大切だったのでしょうね。つまり西田は常に今、ここにあって、現在を哲学しているんです。それを学生たちはまさしく現在の意識として、今ここに起こっている哲学している西田を純粋経験しているんです。ある学生は唸りながら、ある学生は狐につままれながら、ある学生は心中怒りに燃えながら、ある学生は陶酔して快感に酔いしれながら、みんな自分を忘れ果てていたんです。それだけの迫力があったのでしょうね。

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