純粋経験の性質

 純粋経験はありありと事実をそのまま経験することです。たとえ複雑な経験であってもいいんです。「立命館大学」というのは複雑ですね。たくさんの学部や専攻に分かれていて、様々な講義があり、いろんな教授や講師がいます。学生たちもほんとに様々で、大学にくる動機も百人百様です。でも「立命館大学」を経験するその瞬間においては、いつも単純な一事実なんです。たとえば立命館大学は「破壊されたわだつみ像」であり、今は「すごいバイタリティ」です。「青春」もそうですね、青春についてはああでもない、こうでもないと複雑に議論できますが、「これが青春」と実感している瞬間においては単純でユニークなんです。つまり純粋経験なんです。「恋愛」であり「革命」なんです。ああ、でも既に「戦争と革命の世紀」は終わりました。
 純粋経験を生々しい経験と捉えますと、瞬間の刹那的な経験のごとく思われがちですが、それは相対的な問題です。もちろん経験は「青春」の場合でも良く分かりますように持続的なものです。西田は絶壁を必死でよじ登っている間、音楽家が名曲の演奏に魂を没入している間、主客合一していて、その間に余計な思惟など入るだけの亀裂がないといいます。つまり<具体的意識の厳密なる統一>にこそ、純粋経験が直接にして純粋なわけがあるのです。
 意識の体系があって、これが生き物(有機物)のように統一的なものが秩序だって分化発展します。そこで意識には差別相が現れてきます。それで意識がばらばらになると純粋経験じゃなくなるわけですが、統一作用がしっかり働いていると純粋経験であるわけです。普通は純粋経験を客観的実在に結び付けて意味や判断が生じるわけです。ここに赤い花が意識されるとしますと、それは事物としてのチューリップか薔薇かカーネーションかというように判断されます。しかし西田は繰り返しますが「純粋経験を唯一の実在として展開」しているわけですから、意味や判断が生じる根拠を純粋経験の範囲外に求めるわけにはいかないのです。つまり西田の純粋経験論では、事物というのも諸感覚要素の統合にすぎないわけでして、意識と事物を別物と捉えることはしないんです。
 例えば田舎道を歩いていて、「ゴーン」という金属音を聞いたとします。日頃そこに住んでいて夕方六時には必ずその晩鐘がお寺から聞こえてくることを知っていて、その音と共に家路につく習慣の人にとっては、それに純粋経験を破られて、鐘の音だという反省をする必要はありません。無意識的にその音に反応して家路につくわけです。ところが久しぶりに都会の人が田舎に来て、その音を聞くと、過去の晩鐘の記憶と結び付けて、それが石見寺の晩鐘であり、六時になったと認識するわけです。つまり意味が生じ、判断が行われているわけです。西田によると、意味とか判断とかいうものは、現在意識の他の意識との関係を示すものでして、意識系統の中における現在意識の位置を現すにすぎません。
 意味とか判断は、それ自身純粋経験を破っているわけですが、意味とか判断ができるということは、その背後に統一的な意識があるからこそ可能になります。この統一的意識がしっかりしていれば、意味や判断がスムーズになされてほとんど無意識に近い状態でできるようになりますが、統一的意識があいまいな場合は、意味や判断がなかなか出てきません。その分反省的な意識の面が強くなるのです。ですから純粋経験かどうかも相対的なんです。
 「さらに一歩進んで考へて見れば、純粋経験とその意味又は判断とは意識の両面を現す者である、即ち同一物の見方の相違にすぎない。意識は一面に於いて統一性を有すると共に、又一方には分化発展の方面がなければならぬ。」(17頁)
 ここで意識の両面として、その統一面を純粋経験と捉え、分化発展面を意味または判断と捉える意識論が提起されています。純粋経験が唯一実在なのですから、感情も反省的な思考である意味または判断も「同一物の見方の相違」ということになります。

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