判断は思惟の最も単純な形ですから、判断と純粋経験の関係を論じたように、思惟全般についても、純粋経験との関係を論じることができる筈です。西田によれば、心理学からみれば、思惟とは表象間の関係を定め、これを統一する作用なのです。そこで判断とは、二つの表象の関係を定め、これを結合することだとされています。それでいくと「馬が走る」という判断は、「馬」という表象と「走る」という表象を結合したことになりますね。ところが西田はむしろ逆ではないかというんです。
「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一つの表象が予めあって、それを分析して生じたのではないかと西田は主張します。「走る馬」という表象は反省以前の純粋経験です。一般的に言えば「○○が××する」という判断の背後には、「××する○○」という純粋経験の事実があるということです。もちろんまず主語である「馬」の表象があり、次にそれが「草を食べている」、「歩いている」、「ギャロップしている」という連想があって、その一つを選択して、「馬が走る」という判断になることもあると認めています。
でもその場合でも「走る馬」という表象が浮かばなければ、「馬が走る」という判断ができないというのです。例えばマルクス『資本論』で「机が踊りだす」という表現がありましたが、これは「踊る机」というあり得ない表象を思い浮かべているわけです。だからそういう判断は狂っているわけですね。マルクスは物神性的倒錯についての説明で、「机が踊りだす」と表現していたのです。「ディベートする馬」を思い浮かべて、「馬がディベートする」という判断をすれば、そういう判断は事実判断としては狂っています。
知覚だけでなく関係の意識も経験に含まれましたね、「教室」や「大学」も純粋経験できました。化学物質なんかも分子模型や亀の甲型の分子式の図式などでシンボル化して経験できます。推論による論証でも、その結果は定式の形であれイメージできなければなりません。平成大不況は恐慌的な様相を強めていますが、小渕内閣としては様々な情報や判断を総合して、景気回復の処方箋をまとめあげなければなりません。いちおうそれらしきものはまとめているのですが、この処方箋から景気が良くなっていくというイメージが、純粋経験の形で掴めなければならないんです。そこがどうもクリアじゃなくて市場の各方面からの信頼がないので、余計に経済全体も回復に動きださないんです。
経験は知覚により、思惟は心像によるので、純粋経験と思惟とは全く異なった種類の精神作用だというのが常識だったのです。西田は「知覚」と「心像」の区別が、相対的でしかなく、絶対的な区別ではないことを論証しています。西田の論証の是非はともかく、心像は知覚が刻印されたものですから、その区別が相対的なのは当然です。このことについてはホッブズの『リヴァイアサン』が知覚とイマジネーションの関係として展開し、彼独特の人間機械論を見事に基礎づけています。
西田の議論は、知覚像と心像も表象に含まれるのですから、それが統一的で直接的に受け止められていれば両方とも純粋経験とみなしていいわけです。という論法で思惟も経験に含まれるという議論を展開しています。こうした議論は「純粋経験を唯一の実在として展開する」西田の立場からは当然です。もちろん思惟も心理的な経験の一つでしょうから経験に含めるのに異議はありませんが、思惟を経験に還元することによって、思惟独特の論理を曖昧にしてしまうという欠陥はあるでしょう。元々知覚像と心像の区別は、〔客観的事物ー身体ー心〕という区別に対応していたのです。ところが経験批判論は客観的事物という前提を消してしまったのです。ですから「知覚」と「心像」の区別が、相対的でしかなくなるのは避けられません。