経験あって個人ある

 「之を要するに思惟と経験とは同一であつて、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区別はないと思ふ。併し余は之が為に思惟は単に個人的で主観的であるといふのではない。前にもいつた様に純粋経験は個人の上に超越することができる。かくいへば甚だ異様に聞えるであらうが、経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あつて経験あるのではなく、経験あつて個人あるのである。個人的経験とは経験の中に於て限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。」(28頁)
 この文章は「第一編 純粋経験 第二章 思惟」の最後の段落なんです。そして「序」はこれを受けて次のように書かれています。
 「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたいといふのは、余が大分前から有つて居た考であつた。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかつた。其中、個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができ、又経験を能働的と考ふることに由つてフィヒテ(1762〜1814)以後の超越哲学とも調和し得るかの様に考へ………」(4頁)
 これを読んで倉田百三(1891〜1943)著『愛と認識との出発』(1921<大正10>年)の主人公(倉田百三自身)は救われるんです。大正中期から終戦までの青春教養書として必読書とされていたものを3冊あげよというクイズがあれば、立命館大学クイズソサイアティのメンバーなら0.1秒でボタンを押してこう答えます。
 西田幾多郎『善の研究』、阿部次郎『三太郎の日記』、倉田百三『愛と認識との出発』
 実は西田幾多郎『善の研究』が売れ出して、インテリ青年ならだれでも読んでないと恥ずかしいぐらいになったのは、彼らの間で一世風靡の感があった倉田百三『愛と認識との出発』のお陰なんです。『愛と認識との出発』は倉田百三が『善の研究』に刺激されて、自らの青春の純粋経験を語ったものです。その中の「異性の内に自己を見出さんとする心」でこの「序」が引用されているんです。
 倉田は広島県の庄原の呉服商の息子で、裕福な家庭に育ったようです。中学の頃から文学熱に燃え、一高に進んで文芸部や弁論部で活躍します。そのころから哲学論文を書きはじめます。しかし残念ながら病気で一高を中退せざるを得なくなります。そして西田の『善の研究』に傾倒して、『愛と認識との出発』を書くことになったのです。
 それまで臥薪嘗胆、富国強兵ということで明治の人々は我慢強く国力の伸長の為に己を殺してきました。しかし日露戦争(1904〜1905)後、資本主義が発達すると共に貧富の格差が拡大し、労働問題や小作問題など社会問題が深刻化する一方で、富裕化した人々の間では奢侈の傾向、利己主義の傾向が強くなります。そうした傾向を戒める為に1908(明治41)年政府は『戊申詔書』を出して、人心を引き締めたのです。そこにはこうあります。
 「戦後日尚浅ク、庶政益々更張ヲ要ス。宜ク上下心ヲ一ニシ、忠実業二服シ勤倹産ヲ治メ、惟レ信惟レ義、醇厚俗ヲ成シ、華ヲ去リ実ニ就キ、荒怠相誡メ、自疆息マサルヘシ(戦後日はなお浅く、庶政をますます改めおこすことが必要である。よろしく官民が心を一つにして、忠実に業務に服し、勤勉倹約に努めて産業に励み、信義を大切にし、人情に厚い国民の気風を形成し、虚飾を去って質実な態度をとり、すさみ怠ることのないようお互いに戒め合い、自ら勉めるべきであり、励むことをやめてはならない。)」
 多くは富裕階級の出身だった知識人青年には、近代的な自我の目覚めが起こりますが、国家的目標を到達した後は、自我の方向は利己主義に、哲学的には独我論やニヒリズムに向かうようになります。倉田も近代的な自我であるコギトに「我思う故に我有り」の内的直観で目覚めるのですが、他人の存在に確信が持てず、唯心論さらには独我論に陥ってしまったのです。だってデカルトの証明は、第一原理ばかりが説得力があって、神の存在証明や物質である延長的実体の展開は日本人からはおざなりで説得力がないように思えますから。
 そこから極端な個人主義となり、エゴイストになったと言うのです。そのうえショーペンハウエル(1788〜1860)の「盲目的意志」の哲学に影響され、生きんとする意志が生命の内部から盲目的な暴力への衝動として突き上げてくるのを、予感せざるを得なかったのです。そして愛や犠牲ほど大いなる虚妄や誤謬はないと思われたのです。それで破廉恥にも戦闘的な利己主義の性獣となって、一個中隊を率いて洛陽の町を強姦して廻る侵略者に憧れます。
 でも彼がエゴイストに傾くとき苦痛に感じたのが無二の親友Sの存在です。独我論でいくとこの友の存在を確認したり、実在的に肯定したりはできないわけです。でも「生命と生命としてしっかり抱擁して顫えるほどの喜びにすすり泣きしたくてならなかった」のが本音でした。しかし彼は意地を通して誠実な親友を裏切って離れます。そして彼の心は荒みながらも、戦闘的なエゴイズムの充実で生命が燃焼するのを感じていたのです。
 けれどしばらくしたら、また惑いが始まります。要するに彼のエゴイズムは頭でっかちだったんです。元々彼は幼いころから愛に包まれて育てられ、心優しい涙もろい性格だったのです。この知識と情意の分裂に苦悶していたわけです。そこでぼうぜんとさまよったあげく本屋でみつけたのが『善の研究』だったのです。
 倉田は、「個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができた」という活字に「心臓の鼓動が止まる」思いをしたのです。
 「私は喜びでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に胸が一ぱいになって、それから先はどうしても読めなかった。私は書物を閉じて机の前に凝と坐っていた。涙がひとりでに頬を伝った。」(倉田百三『愛と認識との出発』「異性の内に自己を見出さんとする心」より)
 倉田にとっては「個人」とは頭でっかちな近代的エゴであり、それに対して「経験」はあたたかな家庭の愛であり、親友Sとの顫えるほどの喜びの抱擁であり、「純一無雑なる経験の自発自展」なのです。そしてそれは主観でも客観でもないただ一つの絶対なのです。生命の根本的な流れが経験なのです。それは倉田個人だけでなく、家族も親友Sも社会や民族や人類をも包み込んでいるもので、「個人」意識はこの経験から分かれた、一小部分にすぎません。彼は心情では経験の方に惹かれていたのに、西洋哲学の知識に引きずられてコギトが絶対であると独我論に陥っていたわけです。これは日本近代知識人が、いかに西洋の文明や知識に対して憧れとコンプレックスを抱いていたかを良く示しています。

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