意志と純粋経験

 「思惟」が経験に含まれるように「意志」も経験に含まれるのです。西田の純粋経験説では、「経験」を客観的な世界や諸事物があって、それらと関わり、世界や諸事物に関する認識を深めていくという意味では使っていません。世界や諸個人や諸事物との関わりが経験なのではないのです。つまり経験主体や経験対象や経験を構成する諸事象が経験を生み出すと考えるのではなくて、逆です。経験がまずあって経験自身が自発自展的に分化して、経験主体や諸個人、諸事物が出てくるんです。それに経験というのは意識経験なのです。その場合の意識は事物と対置される意識ではないのです。
 意識である諸感覚の統合として意識経験を機能的に説明するためにノエマ(意識の対象面)的に建てたのが事物なのです。ですから事物も意識のフィクション(仮構物)であり、それ自身が意識に他ならないということになります。思惟も客観的事物に関する思惟ではないように、意志も客観的な事物や社会の変革を目的にするのではないのです。意識が意識の変化の特定方向に注意を向けるというのが意志なのです。西田の表現ではこうです。
 「意志といへば何か特別なる力がある様に思はれて居るが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない、或事を意志するといふのは即ち之に注意を向けることである。」「勿論注意の状態は意志の場合に限つた訳ではなく、その範囲が広いやうであるが、普通に意志といふのは運動表象の体系に対する注意の状態である、換言すれば此の体系が意識を占領し、我々が之に純一となつた場合をいふのである。」
 意志も経験であるということは、デカルトのように経験と区別して経験する主体、考える主体という実体を置かないから言えるわけです。デカルトのようにコギト(考える我)を第一原理に置きますと、自我が考え、意志し、経験するということになります。ところがすべてを経験に還元する純粋経験論では、経験は「意識の流れ」或いは「生命の流れ」でして、その流れの統一性や方向性が思惟や意志だということになります。
 例えばここに一個の「電子手帳」があります。これを見た瞬間は知識でも意志でもありません。ただ一個の現実ですね。これについていろんな連想が起こります。それで今ここに見えている分厚いノートのようなものが対象視された時、前の意識は知識的になります。あれはテレビで宣伝していた電子手帳じゃないかということです。そうしますと電子手帳てなんだということになりますね。ワープロやパソコンとどう違うのか考えます。「あれは電子手帳」だという意識の縁暈(ふちどり)として「電子手帳とはメモを入力したり、CD−ROMで辞書として使用できるもの」という意識が生じますね。この意識は前の意識のふちどりの段階では知識でしかないわけですが、意識の中心が後の電子手帳とは何かに移って、独立に傾きますと、この意識は欲求だというのです。つまり「電子手帳とはメモを入力したり、CD−ROMで辞書として使用できるもの」ということに意識が傾いているので、欲しがっているということです。そしていよいよいこの意識が独立の現実となった時が意志であり、また知識としてもはっきりしますので本当に知ったということになります。ですから知識か意志かの区別は意識内容にあるのではなく、意識体系内の地位によって定まってくるのです。
 理性と欲求も相対的な区別に過ぎません。「かくあるべし」という理性の法則と「かく欲する」という意志の傾向も根底は同じなんです。知識に基づいて行為することで欲求を実現するわけですから、「かくあるべし」という理性の法則には意志の統一作用がはたらいているのです。また何を欲するかは、理性の法則に叶っていることが必要です。でなければ欲求はつねに実現できずにストレスがたまる一方ですから。

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