「余が此処に知的直観intellektuelle Anschauung といふのは所謂理想的なる、普通に経験以上といつて居る者の直覚である。弁證的に知るべき者を直覚するのである、例へば美術家や宗教家の直覚の如き者をいふのである。直覚といふ点に於いては普通の知覚と同一であるが、其内容に於いては遙に之より豊富深遠なるものである。」
モーツアルトは長い楽譜を作る際でも、まるで1枚の絵や立像を見るようにその全体を直視することができたといいます。ニーチェ(1844〜1900)は『ツァラトストラはかく語りき』を10日間ほどで書き上げたという話しもあります。よくインスピレーション(霊感)が閃いてという言い方をする人がいます。どうして思いついたか論理的に説明することは難しいけれども、パッとすごいアイデアが思いついて、難問が解けたり、創造上の難局を乗り切ることができることがあるのです。
知的直観を発揮できるようになるためには、自分の才能がどの分野にあるのか探り出す必要があります。「好きこそものの上手なれ」という言葉どおり、好きなことやりたいことに邁進すれば、そこに自分の才能も芽生えてくる筈です。でも何がやりたいのか良く分からないという人が多いようです。自分がやりたい事を見つける為に、いろんな事にチャレンジしてたくさんの感動体験をして、自分に向いている仕事は何かを見つけ出すことですね。
知的直観は芸術家や宗教家だけが経験するのではありません。工場の片隅で働く労働者だって、創意工夫で品質改良、生産性の向上のイノベーション(技術革新)を考えついたのです。ですから日本が1970〜80年代に世界の技術をリードしたのも、QC(品質管理)運動で現場の労働者の知的直観を見事に引き出すことに成功したからです。
知的直観というのはある意味で天才的な直観ですが、決して個人的な能力の還元してはいけません。まさしく個人を超越したところから閃光のようにひらめくのです。ですから本人は自分が考えついたということが信じられないのです。知的直観は人類的な共同の経験の中から、その経験の積み重ねの良質の部分を掘り当てた個人に一般者の経験として現れるのです。
まさしく知的直観によって、主観と客観の対立は解消されます。対象と一体になって始めて対象の論理が掴め、どうすれば対象を認識し、変革できるか分かるのです。それを西田は後に「物になって見、物になって考える」と表現します。そして対象は体系の中で統一されていますから、知的直観は純粋経験なのです。
つい最近私はこの知的直観を体験しました。その成果が1998年に三一書房から出た『キリスト教とカニバリズム』です。遠藤周作(1923〜1996)は他のすべての奇跡は眉唾だが、イエス(紀元前4?〜紀元後30?)の復活だけは否定しきれないと言います。キリスト教会ではこの2000年近く、中心儀式としてキリストの肉だといって、パンを食べ、キリストの血だといって、ワインを飲むミサをおこなってきました。そこでは超越神論の筈があえてフェティシズムに退行しているのです。またバイブルではイエスは、つきものとしての聖霊を信仰していました。そして「人の子(キリスト)の肉を食べ、血を飲まなければ、永遠の命を得られない。」と語ったわけです。そして石塚正英(1949〜)の「アニミズムと結びついたフェティシズムはカニバリズムを生みやすい」という理論があります。石塚はその例にイエスの思想を取り上げているのですが、それを復活に結び付けるところまでは論じていませんでした。これらを総合している内に私は、「イエスは弟子に自分の肉を食べさせ、血をのませて、復活したのではないか」というショッキングな仮説に到達したのです。