唯一実在としての純粋経験

 『善の研究』は「第一編 純粋経験」と「第二編 実在」なっていて、御存知のように「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明する」というのがテーマですから、「第一編」と「第二編」とは内容的に重複するのです。ですから先に「第二編 実在」を読んでから、「第一編 純粋経験」を読んだ方が分かりやすかったかもしれません。実際「第二編 実在」と「第三編 善」の方が先に出来ていて、1906(明治39)年に小笠原秀実が『西田氏実在論及倫理学』と題して印刷して配っていたわけです。「第一編 純粋経験」は1908(明治41)年に「純粋経験と思惟、意志、及び知的直観」と題して『哲学雑誌』に掲載されたのです。ここでは本書のこれまでの内容を踏まえて、足らなかった議論だけを説明することにします。
 デカルトは「方法的懐疑」といって、疑いうるすべてを疑って上で、疑いえない直接の知識を本にして出発しなければならないと考え、それが「コギト(考える我)」だとしたのでしたね。ところが西田はこれに対して「コギト(我思う)」から推理して「スム(我有り)」が出ているので、「我有り」は直接経験の事実ではないとしています。つまり西田は直接経験を出発点に置きたいからそう言うわけです。
 ところがデカルトはコギトを実体として扱い、コギトから神の存在を演繹していますね。「スム」からじゃないんです。ということは思惟と実在の合一が出発点になっているわけで、それなら西田にすれば自分と同じだというのです。それなら「我思う」がそのまま「直接経験」だということになります。ちなみに西田にとっては、この直接経験の事実とは我々の意識現象に他ならないのです。しかもそれは主観・客観が未分化の純粋経験ですから、「我思う」とは言えませんね。単に「意識する」だけです。
 この違いが重要なんです。デカルトの場合は、我が主体として考えるという形になって、そこから主観・客観の認識図式で世界が解釈されます。客観的な世界は主観が思惟できる時間・空間などの延長の世界であり、それを構成するのは延長実体としての物質であるということになります。ところが直接経験を意識現象として捉えますと、実体化された主体であるコギトはなくなって、意識自身が意識していることになります。そしてすべては意識の自発自展的な分化・展開であるということになります。物質が実体として立てられることもないわけです。
 では意識している時に世界は存在し、眠っていたり、死んだりしたら世界も無くなるのでしょうか。そういう独我論に陥らないように、経験を個人的なものではなく、相通じ相感ずるということがあるのだから、超個人的なものだとしたのです。ですから経験の超個人的連続ということは人類的な経験の流れ、もっと言えば生命の流れというようなものを実在と考えていることになります。
 しかしここで初歩的な疑問が湧きますね。人間の登場以前は世界は動物的な意識の実在でしかなく、動物の登場以前は、植物的な無意識状態でしかなく、生命誕生以前は無意識も無いような絶対無の世界でしかなかった事になるのでしょうか。そういう疑問は西田にすれば本末転倒です。だって出発点が直接経験であり、現在の意識でしょう。主・客未分化な純粋経験が実在なわけです。この純粋経験は我々人間の意識ですね。そこでは自然というのは諸感覚の統合によって認識されているわけです。感覚を統合する働き(ノエシス)と統合された対象面(ノエマ)から成り立っているわけです。自然科学的に物体を捉える場合には、そこからノエシスを消去して捉えていることになります。本来は意識活動を差し引いた物体なるものは、抽象的な観念に過ぎないわけです。逆に同じ意識からノエシス面だけ残し、ノエマ面を消去して捉えたのが、ノエシスとしての人間の精神作用です。
 としますと、人間意識発生以前の自然なるものは、人間の意識現象としての自然からの推論に過ぎないわけです。そこで人間が存在しないから、統一作用がなかったとか、生物発生以前の自然は何も存在しえないなどというのは独断に過ぎないことになります。というのは、人間の意識は自然の統合する働きを感覚の統合作用として、身体で意識したということに過ぎないわけでして、決して同じ力が人間発生以前の自然にはなかったことにはならないわけです。各個体を独立自存の実体として捉えるのではなくて、人類や生命全体や実在全体を統一的な存在として見なすことによって、その始源からコスモス(宇宙)的統一力を実在が備えていたことが推論できるのです。
 たしかに人間に至って自然が自己の中に自己を映す自覚に達しており、自覚的に自己自身である世界に関わることができるわけです。その事は重要なのですが、動物には自覚という精神の働きは現れてはこないけれど、生理的な統一力によって自然自身のバランスは維持できていたわけです。植物には感覚的な統一力がありません。自己の感覚を通して、腹が減ったら、生理的に苦しくなって、獲物を取って食べるといった形での自己保存をすることはないわけです。でも生体を維持する統一力はメカニズム的にしっかり持っているわけです。西田によればこの統一力も精神であるわけですが、それを植物が意識するわけではないので、外面的に統一されているのであり、その統一的自己は他の意識の中にあることになります。とすれば西田はそのような精神が人間がいなくても、大いなる自然の働きとして存在するということを認めていることになります。

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