「我々が自然と名づけて居る所の者も、全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由つて起る区別である。自然を深く理解せば、其根底に於て精神的統一を認めねばならず、又完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ。即ち宇宙には唯一つの実在のみ存在するのである。而して此唯一実在は嘗ていつた様に、一方に於ては無限の対立衝突であると共に、一方に於ては無限の統一である、一言に云へば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々は之を神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない。実在の根底が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。」(96頁)
こうして無限の統一である実在が、その統一する無限の働きが神だと定義しています。コスモス(宇宙)全体が自然と合一した精神であり、生きた一つの全体であるわけですから、唯一実在なんです。この一者を名づけるとしたら「神」が相応しいというのです。西田はコスモスを個体の集まり、単なる個体間の関係とは捉えません。コスモスの総体が活動している一つの存在者なのです。ですから各個体は根底において神を宿し、神に接していることになります。
ギリシア人がゼウスをコスモスの総体を象徴するものとして捉えていましたから、このヘレニズムのゼウス神に近いですね。ゼウスは生命力を象徴していました。それでたくさんの女神たちや人の娘たちとまぐわい「神々と人々の父」と呼ばれていたのです。西田の「経験」も生命に近いですから、その意味でもゼウスに近いのです。ヘブライズム(ユダヤ教)の超越神とは、はっきり違います。
ユダヤ教の超越神信仰では、神はコスモスから断絶しています。この断絶は、神を被造物である金属や土や木で造ってはならないし、動物たちを神として崇めてはならないという偶像崇拝禁止、フェティシズム禁止として表現されています。それは絶対者である神を有限者に貶め、限定する涜神行為だという理由からです。神は無から有を創造されて、コスモスと生き物や人間を創造されたのです。神は創造主として、あくまで被造物から断絶しています。被造物である人間は、神から与えられたトーラー(律法)に従って生きなければならないのです。トーラーを遵守すれば栄光がもたらされ、トーラーを蹂躪すれば神の厳しい審判に遭うことになっています。
でも完全に超越してしまっていたら、神と人間との関わりがなくなってしまいます。ほんとに関わりがなくなったら、神を信仰する意味がありません。神を信仰するのは神が御恵みを下さるからなのです。神は絶対で、それに比べると人間は塵に等しいと、その断絶を強調するのは、それによって神の全能を印象づける為なんです。人間が無力であればある程、それと反比例して神は絶対であり、全能だということになり、神が無力な人間を救済する能力を持つことになるのです。ですから超越神論だって本音の部分で人間中心主義を潜在させているんです。
『バイブル』の「出エジプト記」で、モーセ(紀元前1370?〜紀元前1250?)が神からヘブル人たちを「エジプトの苦しみ」から救い出すように、神の山ホレブで命令を受けた時に、モーセが神の名を尋ねたんです。そしたらその回答が「YHWH」なんです。これは聖四文字と言いまして、発音できないように記号化しているんです。「みだりに神の名をとなえるなかれ」というトーラーがありますから。これに母音を補って「エヘイエー」と読みますと、「ある」の半過去形ということになります。それで和訳では「ありてあるもの」としているんです。
これは「出エジプト記」の文脈で言えば、イスラエルの主であり、イスラエルにカナンの地を与えると約束した神は、かつて実在したし、それ以来ずっと実在し続けている、だから神の約束は今でも有効なんだという宣言なんです。ところが後のキリスト教神学では「YHWH」を「存在」という意味に解釈したんです。そうしますと超越神論の神のイメージはなくなってしまいますね。ギリシア的な「不死なる者」、「真実在」が神であるという神のイメージになってしまいます。そうしますと超越の意味も、個物に内在する不滅性、個物の普遍性が個々の現存を超越しているという意味で、そこに神性を求める解釈も可能になります。これが内在即超越ということです。そうなりますと超越神信仰と自然神信仰の対立も絶対的ではなくなります。
仏教には神という概念がありません。しかしそれは仏教徒が神を信じていないという意味ではないのです。仏教はバラモン教から分かれ、ヒンズー教の文化圏で発達しますが、ヒンズーの神々を否定しているわけではありません。神仏習合は古代のインドやチベットでも盛んなのです。自然自身の創造する働き、破壊する働きなどが神格化して捉えられています。仏教では生きとし生ける者(衆生)に対する無量の慈しみの心が強調されます。個々の生命そして個々の生命を包む大いなる生命の流れ、そういうものと一つに成って生きることが仏教の悟りに近いようですね。
そういう生命というのは、ギリシア的な自然神信仰にも近いですし、キリスト教でいう永遠の命の思想にも近いようです。イエスは、個々の個体の生命に固執していたのでは、永遠の命を得ることはできないことを諭します。「人の子の肉を食べ、血を飲まなければ、永遠の命を得ることはできない」と言うのです。このキリスト教的カニバリズムの思想を「命のパン」の思想と言います。愛する者の為に自らの肉と血を捧げてこそ、永遠の命の循環と一体化できるわけです。
私はイエスがこの思想を言葉だけでなく、実際に実行することによって、弟子たちの肉や血と合一し、それが復活幻想を生じさせ、世界史を二分するような歴史的大事件として「キリスト復活」事件が起こったのではないかという仮説を立てています。『キリスト教とカニバリズム』(三一書房刊)を是非お読みください。先程少し触れましたね、インスピレーションの話で。もちろん宗教的カニバリズムの面は、歴史的事件としては隠蔽され、ミサという形に儀礼化されますが、キリスト教には超越神としての神と「大いなる生命」としての神が習合しているのです。
「経験」を「生命の活動」として捉えますと、西田哲学の「実在としての神」は、東西の宗教的対話を可能にするものです。西田哲学によって宗教的対話を深め、促進することは、これからの世界の不安要因の一つである宗教対立を解消することに大いに役立つと考えられます。実際西田は禅の修行ばかりしていたのではなく、『バイブル』からも大いに学ぼうとしていました。東西の宗教的対話への哲学的基礎づけを行おうとしていたといえるでしよう。ただし『善の研究』の神観念は、人間と神の断絶を強調する超越神論を否定することに力点がありました。神と人の合一を前面に出しています。晩年の宗教論では、神と人との断絶面も「絶対矛盾的自己同一」の論理やそれに基づく「逆対応」の論理をつかって見事に表現しています。