いかなるものが価値があり、いかなる行為が善であり、いかなる行為が悪であるかについて考える場合、西田によると、倫理学説は二つに分かれます。一つは他律的倫理学説です。これは「善悪の標準を人性以外の権力に置こうとする」説です。神の権威や権力者の権威が善悪の標準だという説です。もう一つは自律的倫理学説です。これは善悪の標準を人性の中に求めようとする説です。理性を本とする合理説または主知説、快苦の感情を本とする快楽説(功利主義)、意志の活動を本とする活動説などが自律的倫理学説に含まれます。そして直覚説というのがあります。
直覚説は性善説と言い換えてもいいかもしれません。『孟子』によれば人間には、だれでも生まれつき四端が備わっています。他人の不幸を見て見過ごしにできない「惻隠の心」、心にやましいことをして自分を恥ずかしいと思う「羞悪の心」、他人に譲ろうとする「辞譲の心」、自らの行いを反省する「是非の心」が四端です。これを大切にし、拡張していけば、聖人の徳である「仁・義・礼・智」の四徳が身につくようになるのです。
本居宣長は、人間は神によって造られたものだから、何が善で何が悪かは自然に見分けられるように造られていると言います。ところが社会の中で、儒教や仏教などの賢しらな人智によって、この天賦の能力が損なわれているのです。そこで宣長は、賢しらな漢心を去って、神から造られた「物のあはれを知る心」つまり皇国心のままに生きるように説きました。つまり感じるままに行動して、それで悪をなすとすれば、人間は互いに損ない合って自滅している筈です。そうならないような直覚を人間は生まれつき授けられているからこそ、存続してきた筈なのです。
直覚説は、この行為が善だとか、悪だとかは直覚的に知ることができるというのです。それはちょうど、火は熱くて、水は冷たいというようなもので、説明は不要だというのです。たしかにたいていの行為の善悪は、見てすぐ分かる場合が多いですね。他人にいじわるをするより、優しくする方がいいわけです。でも一般的に、どんな場合も、そう言えるでしょうか。なかには根性がひん曲がっていて、他人に乱暴で意地悪で、犯罪的なことばかりしている人がいます。そういう人に対しても優しく接する方がいいのでしょうか?そういう人は優しくするとかえってつけあがって、ますます手に負えなくなるかもしれません。冷たく接することで反省させる方が本人の為にもなるかもしれませんね。
直覚説では、予め知識なしに事の善悪が分かるということですから、わりと単純な感覚的な事柄では説得力があります。「人にされたくないことを、人にするな」とか「人にされたいことを、人にしてあげなさい」とかは当然だと思えますね。しかしその場合でも、人間は同じ好き嫌いの感情を持っていることが前提されていますから、必ずしも全面的には正しくありません。