倫理学説その三、合理説

 他律的に道徳を説いても、主体的に何故我々が善をなさなければならないかは分かりません。そこで自律的倫理学が、人性に基づいて善を説明します。理性を本とする合理説又は主知説、快苦の感情を本とする快楽説、そして意志の活動を本とする活動説です。
 ソクラテスは知行合一を説きました。知っている限り、その知識に基づいて行動する筈なのです。人々が悪をなすのは、本当のことを知らないからなのです。例えば盗みをするのは、それが物質的な富や快楽をもたらすからですが、盗みによって社会的に治安が乱れ、結局は自分の物質的富や快楽が脅かされることになります。その上なりより、悪をなすことによって自らの魂が汚され、清い魂によってのみ得られる真の幸福からも遠ざかることになります。そういう真理を知っていたら、悪はなさないだろうということです。
 しかし西田はこの合理説には納得しません。合理説は「ある」ということと「あらねばならぬ」ということを混同していると見るからです。確かに知識上では我々は理に従うべきですが、それに基づいて意志を伴う道徳的判断をすべきかどうかは又別問題だというのです。存在それ自体をあるべきものと同一視する見方は、「あるもの」は「一者」だとするエレア学派や神を「存在」の名で捉えるキリスト教神学にも窺えます。又太初や本来の姿を純粋至善の心として捉える陽明学などもこの合理説の立場でしょう。
 ストア派はソクラテスが善と知を同一視したのを受けて、情欲に従うのを悪とし、情欲にうちかって純理に従うのを善としましたが、ただ情欲にうちかって理性に従うのが善だといっても、形式的にそれを実行するだけでは全く無意味です。そうしなければならないのは、何かもっと大切な目的があって始めて、情欲を克服して理性に従うことに意義が出てくる筈なのです。ですから道徳的動機というのは単なる情欲の克服にあるのではないと西田は考えます。

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