人間に備わっているものから、つまり人性自然の中から善を説明する説で有力なのが快楽説です。だれしも快楽を享受し、苦痛を避けたいというのが行動の基本にはある筈だというところから、快楽をもたらす対象や行為を善とみなし、苦痛をもたらす対象や行為を悪とみなします。この快楽説には2種類あります。1つは、利己的快楽説です。自己の快楽をもって人生唯一の目的とし、他人の為につくす場合も、そのことから得られる満足感を快楽とみなし、自己満足に還元して捉えるわけです。もう1つは公衆的快楽説です。
快楽をもたらすものが善であるという考えは、生理的なレベルではある程度説得力があります。中国には「医食同源」という言葉があります。もし人間が食べて美味しいものが健康に悪く、食べて不味いものが健康に良いとしますと、健康が損なわれてしまいます。多少の例外があっても、美味しいものを食べていると健康になるからこそ、我々は健康を保てるわけです。とはいえ、実際には美味しくても健康を損なうものとか、不味くても健康を増進するものも沢山あります。「良薬口に苦し」という諺がありますね。
こういうことは言えるでしょう。健康に良いものを食べて美味しく感じたり、有害なものを食べて不味く感じたりする人の方が、そうでない人よりも適応能力がありますから、結局遺伝学的に生き残っていきます。その結果、味覚的に快楽をもたらすものは健康にとって善だということが成立するようになったわけです。もちろん快楽をもたらすものが無条件に善なのは、快楽をもたらすことにおいてのみです。
快楽説は単純に最大の快楽と最小の苦痛を幸福だと定義しています。快楽量の増大を幸福量の増大だと決め込んでいるんです。それで快楽をもたらす行為や対象を善だと、安易に定義してしまうのです。果して感覚的な「快楽」量をもとに「善」を測れるのでしょうか。「善」は感覚以外の要素も含んでいますから、とても難しいと思われます。
それに快楽をもたらすという意味では「善」ではあっても、同時に同じものが健康に害をもたらすという意味で「悪」の場合もありえます。セックスは性的快楽をもたらしますので「善」ですが、それが売春や婚外交渉の場合は倫理的関係においては「悪」でもあるのです。感覚的に「善」であることと倫理的に「善」であることには、常に正の相関関係があるわけではないのです。むしろ両者が大いに矛盾したりすることから、倫理的な葛藤に苦しむことになります。「わたしはこれで会社をやめました」なんてCMがありましたね。「わたしはこれで首相をやめました」という人もいたようです。クリントン大統領も感覚的に善ながら、倫理的には悪の問題では随分顰蹙をかっているようですね。
快楽説ではベンサムなどは快楽計算法を考えています。強度や持続性等を数量化して最大限の快楽追求に役立てようという発想です。これもあまりに浅薄な発想ですね。苦痛と快楽というのは弁証法的な関係にあるんです。いつも味気ないものを食べているから、たまにデリィーシャスな食事が素晴らしい快楽をもたらすわけです。いつも御馳走攻めにあっていますと、たまに食べるお茶漬けの方が断然ビューティフルです。登山で頂上を極めた時の快感の大きさは、それまでの登攀の過程がどれだけ苦しかったかにかかっています。幸福も不幸の中でこそ実感できるものです。カーニバルの興奮は、長い悲しみの日々に耐えているからこそ人々を陶酔に導いてくれるのです。
ベンサムは個人的な快楽だけではなく、公衆的快楽を追求しました。いわゆる「最大多数の最大幸福」です。彼は特権階級だけが快楽を独り占めしている社会を嫌い、快楽計算に際して、全ての個人が平等に数えられるべきだと主張したのです。その上で社会全体の快楽量最大を政府の目標にするようにと主張しました。西田は、ベンサムに対して、快楽を感じるのはいつも個人であるから、どうして個人の最大幸福よりも最大多数の最大幸福が上に置かれるのか納得のいく説明がないと批判しています。これはベンサムがプライベートとパブリックの使い分けをしていて、プライベートには個人の最大幸福を追求するけれど、パブリックには最大多数の最大幸福を追求すべきだと考えているのが、明記されていないために理解できなかったのだと思われます。
西田は快楽説では人間の行動規範を基礎づけることはできないと考えました。人間の行為の目的を快楽に一元化することはできないと考えたからです。人間は自己の快楽ばかり追い求めているのではなく、他人を愛して、自己を犠牲にしてでも他人の為に尽くそうとたり、理想を掲げて追求していこうとする欲求をもっているのです。理想の実現の為ならいかなる苦難や危険をも厭わず、たとえ牢獄や刑死が待っていようとも恐れないで、自己の身も心も理想のために捧げ尽くそうとする革命家や宗教家がいます。
しかし快楽説の立場からは、他人を幸福にすることに欲望を感じていて、それを満足させているのだとか、自分を自己犠牲的なヒーローにすることにナルシシズム的な満足を感じているのだと解釈するのです。中国の諸子百家に楊朱という人がいて「自分の為でなければ髪の毛一本動かさない」ことをモットーに生きたそうです。利己主義者は万人がその本性において利己主義者に決まっていると思い込んでいるのです。たしかに他人や理想の為に自己犠牲的に尽くしますと、自己の行為に対してある種の満足感がでてくるものです。そしてこの満足感も快楽を伴います。だからといってこの満足感・充実感を得る為に、他人の為に自己犠牲を行うとは言えません。それでは自己犠牲とは言えませんから、自己犠牲に伴う満足感を得ることはできないからです。
西田は欲望の充足は快楽を伴うにしても、欲望が起こるのは快楽を得る為ではないと言います。例えば排便の欲求の充足は、ある種の快感が伴いますが、だからといってその快感の為に排便の欲求が起こるわけではないのです。同化と異化による生命維持の為に排便の欲求が起こるのです。食欲にしても御馳走がでようが、粗食がでようが、美味を味わうために起こるというよりは、空腹を満たして体力を維持するために起こるものです。
人間の行為は、そういえば快楽の為に行われるのはかえって少なくて、大部分は何らかの目的連関の中に組み込まれています。それぞれの行為には目的や意味があるわけです。そして目的が達成されると満足感が伴いますが、別に何の快感がなくても毎日の行動計画表に従って行為せざるを得ないのです。そして幸福というのも必ずしも快感の量に比例しません。たとえ毎日が苦難の連続の日々であっても、そこに快楽は少なかっても、逆に難しい仕事であればある程、目的が達成された時の満足感とそれに伴う幸福度も大きいかもしれません。