アリストテレスは、幸福(エウダイモニア)をそれが何かの手段として行われるのではない、自己目的的な活動(エネルゲイア)だと捉えました。散歩は楽しみとしてはエネルゲイアですが、肥満予防の為の手段として捉えられて強制感が伴いますとエネルゲイアとは言えません。読書もそうですね、趣味や楽しみならエネルゲイアですが、知的パワーアップの為の手段として義務的に読んでますとエネルゲイアとは言えません。西田はこのようなそれ自体が目的の活動としての幸福こそが善だとしたのです。
自己の幸福を善とすることに対しては、カントが批判しています。カントは道徳性を傾向性を抑制して義務に従うところに見いだしていました。傾向性とは自己の欲求や利害に則って行動しようとすることです。そんなことをしても別に改めて道徳的だと褒めてあげる必要はありません。傾向性に基づいて行動すれば、公共の福祉に反する場合に、自己の傾向性を抑制して、普遍妥当的な行動ができなければならないのです。それができて始めて道徳性があると認められるのです。カントのこの立場からいきますと、自己の幸福の為の活動は、放っておいてもだれでもすることで、少しも道徳的に褒められる必要がありません。自己の幸福を抑制して他人の幸福の増進に寄与しようとしてこそ、道徳的だと評価されるのです。そしてカントは、そのような道徳的な行為を善だと定義したのです。
カントにすれば自己目的的な充実した活動をしたり、自分の健康や能力を増進する努力をしたり、その活動自体が大いに評価されるべき活動であっても、そこに公共の為に私利私欲を抑制する契機がないと「善」とは認めなかったのです。西田はそれがよき活動であれば、その行為が自己の為であれ、他人の為であろうと、その活動は善だと認めているのです。これはカントと西田の「善」定義内容の違いにによって起こる混乱です。
カントは克己的な公共性の自覚に道徳の出発点を求めています。ところが西田は、「一層大なる要求を攀援すべき者があつてこそ、小なる要求を抑制する必要が起こる」としています。ですから必ずしも公共性との関連では道徳的義務を説いていないのです。むしろより理想に近づくことに道徳性を見いだし、そのような努力に善を見いだそうとしているのです。
西田は快楽と幸福を似ているけれど異なるとしています。快楽は感覚的なものですが、幸福は理想的要求の実現に伴って生じる満足によって得られるのだとしています。ではその「要求」や「理想」はどこから生じるのでしょう。西田によれば、意識には常に統一作用が働いています。意識全体を統一する最深なる統一力が働いています。この統一力が西田によれば「自己」なのです。
要注意なのが自己と意識の関係です。「自己」がまずあって、それが意識しているんじゃないんですよ。意識自身の自己を統一する働きが「自己」なのです。この統一力である自己が、意識を統一する作用が意志なのです。そこで意志の発展完成が、自己の発展完成になるとあります。こうして「善」は人間が意志の活動で、人間の天性的な自然を発揮することなのです。つまり人間は人間らしく生きるのが善なのです。
人間は快楽を得る為に存在しているように見えますが、それ以前に個体と類の自己保存を計ろうとする先天的な本能に規定されて存在しているんです。また歴史的・社会的存在としては、社会の目的連関に組み込まれて存在できるわけです。家庭では父親として、職場では従業員として、電車の中では乗客として、何をしなければならないかが決まっていますね。決して快楽原理で気持ちいいからやるんじゃないんです。もっとも気持ち良くやれるようにするのは、いいことですよね。大いに智恵を出し合って工夫しましょう。でもたとえ満員電車がいやでも通勤ラッシュに耐えて会社に行かないと、生活ができません。多少なりとも傾向性を抑制しなければならないのが、道理です。ですから本能や社会の目的連関が自己の意志となって意識を統一し、自己を実現する活動をしているわけです。
西田は、この意志の活動の実現が善であり、幸福に他ならないと主張しています。カントみたいに「傾向性を抑制する」かどうかに道徳性の成立をみていないのです。本能や社会的役割を意志の営みとして主体的に果たすところに善や幸福を置いているわけです。それは桜の花は春になったら見事に開花して、見事に散りますね、物が自然の本性を立派に発現すれば、それが善なのです。この善の概念は、だから美の概念にとても近いのです。形における洗練をとことん追求した古代ギリシアでは、善と美が同一視され、カロカガチア(善美なるもの)が理想として追求されました。さらに西田の善の概念は実在の概念とも一致します。つまり自己の真実在と一致するのが最上の善だとしています。具体的な真実在においては存在と価値の両者は元来1つなのです。