人格的善について

 西田は自己目的的な活動を善とみなします。意志によって統一され、意志がその活動自体を目的とする自己目的的な活動、アリストテレスのいうエネルゲイアが善なのです。とは言いましても、その活動が目的連関の中で手段として機能してはならないという意味ではありません。むしろ逆です。目的連関を意志が深く体現して、最も有効に手段として機能してこそ、その活動は充実したものであるわけです。
 西田は、意志がその統一力を発揮して、意識をまとめあげている時、主観と客観は一致しており、純粋経験の状態にあると言います。そのような状態こそ西田にすれば、真実在であり、善なのです。ところで意志というのは意識を離れてあるわけではありません。西田は、意識が意識自身をまとめあげる統一力をもっているとし、この統一力を人格とみなします。人格の統一する個々の働きが意志だというのです。人格とその働きとしての意志がなければ意識の統一もありませんから、そこで善は人格的善として捉え返されることになります。
 とは言いましても、西田哲学では、人格が先にあって、それが意識しているというように捉えるのは間違いです。そういう形をとれば、人格は主観で、その意識内容を客観だと見なす主観・客観認識図式に陥ってしまいます。あくまで人格も意識自体の自己を統合する働きなのです。ですから主観である人格と客観とみなされる意識内容は、同じ意識の表裏を構成しているわけです。人格は決して意識というソフトを生産している思考機械というハードじゃないんです。
 脳は意識が生じる場ではあっても、人格とイコールではありません。意識をまとめる統一力は意識自体が個と類の体験によって蓄積してきたものです。個や類が自己保存をはかり、環境へ適応できるように意識が自己をまとめあげてはじめて人格の形成・発展が可能なんです。人格を意識自体の統一力として捉え、客観を意識内容として見直しますと、主観と客観は同じ意識に、つまり純粋経験に合一します。ですから人格的な善とは、人格と客体の分裂を克服し、分裂以前の純粋経験にかえることを意味します。
 人格の要求つまり意志によって意識がまとめられ、そこに人格が自己を見出した時、自己実現して真実在を実感し、善=幸福を享受しているんです。それは「客観に対して主観を立し、外物を自己に従へるといふ意味ではない。自己の主観的空想を消磨し盡して全然物と一致したる処に、反つて自己の真要求を満足し真の自己を見る事ができるのである。」(155)ということです。
 人格が意識を統一しています。主観・客観合一の純粋経験の立場から言えば、この統一された意識経験はそのまま真実在の姿です。そしてそれは実在の根底における無限なる統一力が働いている姿なのです。我々はつい個人の体験を類の体験から切り離し、一般者から切り離して捉えがちです。類の体験の蓄積の中で意識の統一力が発展してきたこと、またこの統一力は社会的歴史的な力でもあることを忘れがちです。この意識の統一力は、実在の根底における無限なる統一力の現れに他ならないのだと西田は捉えているのです。
 このことを単なる理屈として覚えても仕方ないんですよ。ああ、そうだ!自分は自分が見たり聞いたり考えたり苦しんだり悩んだりすることを、ただ自分の身に起こっている私事としてしか捉えることができなかった。私がこの桜を見て、「もののあはれ」に打たれるのは、西行や兼好や宣長が、そして幾億の祖先が心打たれたからなんだ。私の喜び悲しみは、何万年の人々の喜び悲しみを引き継いでいて、今生きている数十億の人類と共に感じているものなのだ。そして世界が私自身を通して、私の認識、私の感情、私の意志として、私の生命として展開しているんだ、そのことを受け止めて生きなければ、私の人格的な尊厳は成り立たないのではないか、というように自分自身の生き方の問題としてホット・ハートで受け止めなければナンセンスです。
 西田もカントのように、善行為を人格を目的としたものだと捉えています。「富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身に於いて善なるのではない。若し人格的要求に反した時には反つて悪となる」(153)と語ります。ただしカントとは人格の捉え方がかなり違っているのです。西田倫理学の理解にとって、この相違に気づくかどうかが決定的です。カントの場合は、道徳性との関連で人格が語られます。カントによれば、利己的な欲求や利害である傾向性に流されるのを抑制して、普遍妥当性のある行為を選択できることに道徳性が成り立ちます。いつでも自分の行為を吟味して、公共性を損なっているのではないかと反省する主体性が大切なのです。こんな場合には人間としていかに行為すべきかを普遍性のある形で、自己立法できることが自律なのです。そして自律的な主体を人格と呼ぶのです。
 西田が人格的要求という場合には、それは「意識の統一力であると共に実在の根底に於ける無限なる統一力の発現である、我々の人格を実現するといふは此力に合一するの謂である」という意味です。そして全人格の要求は「我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態に於いてのみ自覚することができる」というのです。それで「人格とはかかる場合に於て心の奥底より現はれ来つて、徐に全心を抱擁する一種の内面的要求の声である」と言われるのです。
 内面の声はカントの場合、道徳法則に基づいて行動するように命令する実践理性の声です。これに対して西田の「人格」は、「至誠」や「天真」として表現される心的な態度なのです。要するに心にやましいところがなく、自らの信念と良心に忠実であるということでしょう。そして主・客合一の立場ですから、虚心になって「実在の根底に於ける無限なる統一力の発現」の命じるところに従う態度でもあります。いかにも誠心誠意という感じで純粋ですが、求められているのは精神的な純粋性であって、決して道徳的な公共性ではないのです。「至誠」や「天真」からの行為であれば、その行為が道徳的な公共性に欠けていたり、人権への配慮が足らない行為であっても正当化される恐れがあります。日本近代の野蛮な侵略の歴史も、東亜共同体を建設するというそれこそ「実在の根底に於ける無限なる統一力の発現」の命じるところに従う態度だったという言い訳に利用されます。
 カントは自己立法という形でだれもが人間としてなすべき普遍的な行為をなすことを求めていますが、西田の場合は、己がなすべきことは他人には適用できません。天が求めている自分しかできないことを、自己の全力を尽くしきり、自己の意識がなくなるところまでやって、そこに始めて真の人格の活動が現れると捉えているのです。ですから西田の人格はオリジナリティと等置されています。
 「試に芸術の作品に就いて見よ。画家の真の人格即ちオリジナリティは如何なる場合に現はれるか。画家が意識の上に於て種々の企図をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆自ら随ふ所に至つて始めて之を見ることができるのである。道徳上に於ける人格の発現も之と異ならぬのである。人格を発現するのは一時の情欲に従ふのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従ふのである。放縦懦弱とは正反対であつて、反つて艱難辛苦の事業である。」(154〜155)
 哲学者西田の人格は、ねちっこく同じようなフレーズを繰り返しながら晦渋な議論を辛抱強く進めていく文体から想像される、偏執的で生真面目な性格がそのまま風格として出ています。哲学以外には全く無頓着といった感じで、いつも擦り切れたくすみきった感じの同じ服を着ていました。その風貌は家庭的に自分も含め病人を何人も抱えて、外見に構えなかったことにもよりますが、学生達に欧米の哲学を翻訳紹介するだけの哲学教授のイメージを払拭して、本物の哲学する実存をぶつけて電撃を走らせたのです。
 人格は主観として客観に対立し、客観を支配するということではありません。勝手な思い入れや固定観念をすべて拭いさって、対象の魂と一致したときに始めて真の人格が実現するのです。ですから人格は対象の反映であり、対象は人格の反映だということができます。対象が自己の理想を反映し、自己が対象の理想を反映して、両者が一致するのです。ここにおいて善の行為は必ず愛であり、愛とはすべて自他一致の感情なのです。この愛は人に対するだけでなく、自然に対する場合にも生じます。

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