「真の善行といふのは客観を主観に従へるのでもなく、又主観が客観に従ふのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至つて、甫めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたのでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたのでもよい。元来物と我と区別あるのではない、客観世界は自己の反影といひ得る様に自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない。天地同根万物一体である。印度の古賢は之を『それは汝である』Tat twam asiといひ、パウロはもはや余生けるにあらず基督余に在りていけるなりといひ(加拉太書第二章二十)、孔子は心欲する所に従うて矩を踰えずといはれたのである。」(156頁)
西田は純粋経験が善であるというわけです。この純粋経験は反省以前の主観・客観が未分化な経験よりも、主観・客観が対立し、我と物に分かれた後で、この断絶を克服し、意識の統一を回復して、より高いレベルでの純粋経験に到達したものなのです。ですから雪舟は自然を自己の他者として客観的に認識するのではなく、主観として外から客観を見る立場を越えて、物になりきっています。雪舟としては描いている自分は消え去っているのです。「それは汝である」ですね。自然が雪舟を通して自己を描いているのです。
近代主観主義の認識論では、認識は主観の働きに還元されてしまいます。対象の側の働きが抜け落ちているのです。薔薇の花を見ているということは、薔薇が自己の像を見る人の視覚に結んでいるということでもあるわけで、同じ活動を逆から見直しているだけです。薔薇を見てる人が画家ならば、薔薇の美しさに心打たれて薔薇の絵を描かされるかもしれません。とすれば「自然が雪舟を通して自己を描いた」というのも決して単なるレトリックではないのです。薔薇には意識がないから、薔薇が自己を描かせることもない筈だという反発がありそうですね。薔薇は自ら華麗な姿と妖艶な芳香で人々を魅了します。これは薔薇が放っているもので薔薇からの作用です。その作用が人々を魅了する限り、薔薇は栽培され続けるのです。こうして自己の働きかけによって自己を保存していると言えます。その為に人間の薔薇についての意識を形成し続けているのです。この人間の意識は薔薇が自己保存の為に形成した薔薇の意識でもあるわけです。その場合人間の薔薇についての意識は、薔薇の意識を補完していることになります。これが本居宣長のいう「もののあはれ」であり、「ものの心」であるのです。
これは単に絵を描くに限定できません。物事を考えるということでも同じです。長銀問題で公的資金を投入すべきかどうかは難問です。近代主観主義では考える主体はあくまで諸個人にすぎません。現代資本主義の複雑な機構があり、その中での財政金融システムの特殊な役割があります。放置しておけば連鎖倒産、世界恐慌の引き金になりかねない事態があります。他方銀行業界と政界との癒着もあり、経営者や企業が自己責任を負わない無責任体制も問題です。不良債権問題やデフレの問題にどう対処すべきかも難問です。こうした様々な議論の中で考えているわけですから、思考を生み出している主体は単に個々人の頭脳だけに止まりません。マス・メディアを含む巨大な政治経済システムの全体がそういう思考を生み出しているのです。個々人の頭脳はその中に組み込まれて始めて回転するのです。その意味では巨大なシステム自体が思考していると言えます。
とはいえ個々人の得ることができる情報はほんの僅かで、複雑怪奇な物事の本質を把握することは至難の技です。それに論者達と金融システムはほんの僅かな接点しか共有していないわけですから、問題の核心を捉えて解決策を提示するのはそれこそ「ラクダが針の孔を通るよりもっと難しい」かもしれません。でも社会システムは生きた全体ですから、あらゆる部分に同じ構造と核心的な問題が伝播し、影響を与えている筈です。一々その繋がりを明らかにはできませんが、身近で小さな問題から大問題を解くヒントが与えられたりするのです。論者達自身がこの生きたシステムに組み込まれて生きているのですから、自己の経験の根底にある統一力である社会全体の思考から様々なインスピレーションが与えられるのです。
個々人の思考は巨大なシステム自身の思考の一環として行われているのですから、個々人にとっては自分の力を越えた、大いなる考える力から考えさせられているような思いにとらわれるのです。次から次と新鮮な発想が湧いてきて、とても解けない難問がピィピィピィと解けちゃうんです。もちろんそれでできるのは仮説に過ぎません。しかし十分実験や試行に値するものがひらめくことがあるんです。私自身が理論的に西田のいうような人格的オリジナリティに到達した体験は、少なくても3回ありました。青年期の「人間=商品」論、30代後半の「マルクス物神性論におけるつきもの信仰」の論理、50歳になってからの「イエスに対する聖餐による復活信仰」仮説です。
エコノミストと金融システムとの間にはかなりの溝があるんですが、やはり同一の政治経済社会システムという根源的な統一力で結ばれています。物理学者と宇宙との関係もやはり同じことがいえるでしょう。個々人と存在全体とは深い断絶と共に、同じ根源的な統一力で結ばれていますから、存在自体を論じることもできるのです。もちろんその根源的な統一力を、きちんと論理的にかつ実証的に示せと言われても、すぐには簡単にできません。そこで西田は後に「場所」や「絶対無」や「弁証法的一般者」の論理としてこれを展開したのです。
19世紀後半から20世紀始めにかけては、こうした根源的統一力は「生命」というターム(用語)で語られることが多かったのです。西田はベルクソンの生の哲学に最も深い親近感を示しています。19世紀初期に活躍したヘーゲルは弁証法的論理学の哲学体系という姿で、根源的な統一力を示しました。しかしこうした同一性は現代哲学からは神話に過ぎないと否定的に捉えられています。そして同一性を踏まえて哲学体系を試みること、あるいは哲学や形而上学への志向が、埃をかぶった骨董品として無用の長物だとみなされがちです。真理体系の提示自体が、真理の押しつけで権力的だとの非難をうける始末ですから。
でも私は、西田のように根源的な統一力を信じたい方です。たとえば山を見てその悠然たる姿に圧倒されます。先日マッターホルンを見ましたが、まるで勃起しているように天に向かってそそり立っていました。すごく励まされたんです。自分も挫けちゃいけないと思いました。私とマッターホルンの間に何か根源的な統一力を感じるんです。空海は太平洋の大海原を見て自分の名前を「空海」と名付けましたが、彼は大宇宙との一体感を掴んでいたようですね。空を見る時、私は空であり、海を見る時、私は海です。花を見れば花、星を見れば星、鳥を見れば羽ばたく鳥なのです。だって私は私の生命であり、私の生命とは、海や空や山や花や鳥を意識することに他ならないからです。
もちろん私の生命は社会生活を営む事でもあります。私は仕事であり、家族であり、友人であり、買い物であり、消費であり、又ワープロであります。そうした諸々の社会的な関係であり、諸事物です。それらとの根源的な統一力を私は、いかに困難でも持続し続けなければならないのです。私の方で根源的な統一力を信じていても、それが私と私が必要としている職場や人間関係や仕事を、うまくコネクションしてくれなければ、たちまち私は窮地に陥ることになるのです。実際どのような根源的統一力があって、それがどのように私と繋がっているのか、なかなか掴みきれません。まさしく一寸先は闇という状況にしばしば見舞われています。でも生きている以上、自然や社会や人間と交わり心通わせ合わなければならないのです。それには我々の意識に現れるものとの根源的な統一性を信じる必要があると思われます。つまりあくまで仮説であっても、ユニバーサルなもの(一般者)の展開としてコスモスを捉えることが大切なのです。