2-1-1純粋経験論の矛盾

第二章 場所と絶対無

第一節 「自覚」から「絶対自由意志」へ

純粋経験論の矛盾

 『善の研究』で西田幾多郎は、「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明し」たのです。だから感覚や知覚だけでなく、記憶や思惟や意志も純粋経験だとしました。しかし元々純粋経験とは何等判断の加わらない状態と定義されていた筈ですね。なのに、極めて複雑な分裂的状態を含んだ反省的な思惟まで、そこに見られる統一的側面を捉えてやはり「純粋経験」だと強弁するのですから、読者が混乱してしまうのも無理がありません。
 要するに西田は主観と客観の分裂状態を克服し、対象を自己自身として捉え返して、意識の根源的統一に帰ることを善として展開したかったのです。つまりあらゆる経験はいかに複雑な分裂の様相を呈していても、また他者として自己に疎ましいものであるように見えていても、それが意識である限り、そのまま受け止めれば統一されているのです。つまり対象はクリアな意識としては自分の意識経験であるわけです。
 このように意識経験するということが生きているということなのです。つまりたとえ事物として客観的対象として現れても、自らの生命の流れとして捉えるべきだというのです。ですから、この生命は単なる主観の個体の生命に止まりません。コスモスとして実感できるのです。主観と客観が未分化な忘我の境地になって、この星や薔薇が、この愛し子が、この難事業が、この戦いが自らの生命であり、コスモスでもあると実感できたなら、それぞれがかけがえのない自らの実存として胸に迫ってくるのです。
 西田は意識の根源的統一を体得する為に座禅に没頭していました。四高教授の頃の日記には「朝打坐、昼打坐、夜打坐」と座禅三昧の日々が記されていますが、それは西田が孤独を好み、人情に薄かったからではないのです。むしろ逆に西田は人一倍家族への愛に熱く、友情や師弟愛にも燃えやすい人情家でした。彼は自らの生命の現れとして、意識経験の1つ1つを知情意の全体でホット・ハートで受け止めるタイプだったのです。そしてそのような生き方を「善」として捉えたのが『善の研究』なのです。
 もちろんそれは矛盾に満ちた試みです。純粋経験を唯一の実在だと言いながら、現実には、意識は主観・客観に分裂し、事物として規定し、他者として対立してしまっているわけですから。意識がピュアな状態なのは、むしろ刹那にあるかなしかではないでしょうか。そういう意識の分裂がどうして生じたのかが問題の筈です。それを捉え方を変えることで意識の統一面に注目して純粋経験でもあるという議論は、現実の意識の分裂を解決する上で、何の慰めにもなりませんね。
 実際、意識が分裂して、「私」の下らない利害や欲望に流されて、純粋経験から遠ざかるのを西田は我慢できなかったのです。西田は最も高遠な哲学を説いている筈の自分が、甘党でつい駄菓子に手が出てしまう事なども気にしていました。四高教授時代に西田の家に訪れた生徒の話しでは、西田の奥さんが出した菓子を西田が知らない間に全部食べてしまったというエピソードがあります。西田のお孫さんである上田久の『祖父西田幾多郎』は、そういう人間味溢れる愛すべき西田の素顔が登場します。明治31年9月の日記には次のように書いてあります。

「二十日(火)午後グ氏ヲ訪フ。GoetheーLeben,ーFaust,KantーKritiken, 聖書、論理。
 夜登張ヲ訪フ。渡邊来訪、菓子ヲ買フ。又自分モ食フ。夜ハ少シ打坐。
 二十一日(水)菓子ヲ禁ズ。着実ナレ。謹シクvain(軽薄)ナル勿レ。」


 また翌年3月の日記にも次のように書いてあります。

「十日(金) 今日モ心地ハヨシ。午後ハはるとまんヲヨム。夕ニ稲葉君ヲ訪ヒ定刻ヨリ遅レテ来ル。昨日ヨリチト気浮キタル方ナリ。尚少シernst ナルベシ。心キタナクモ物ヲ食ヒタリ。之ハチトツツシムベシ。
 十一日(土) 夜打坐少時。又□□□□(数文字消されてあり) 、チト胃ノアシカリシ為メナリ。サレドモ平素ノ心得アシキ為ナリ。心の悪念ハ誠ニ恐ルベシ戒ムベシ。」


 どうも間食に駄菓子やパンに手が出てしまい、その為に腹をこわすこともあって、自己嫌悪に陥っていたようです。彼が克己の為にしきりに座禅に打ち込んだのも、そういう自分の卑しい性癖を直そうという動機が、無視しがたいほどのウェイトを占めていたようです。そして4月と5月の始めの日記の欄外に心得があり、いずれもその中に

「土日ノ外ハ人ヲ訪ハズ、三食ノ外物ヲ食ハズ。」「用ナキニ人ヲ訪フベカラズ、無益ノ者食フベカラズ」

とあるのです。これが「無字ノ公案寸時モ打失スベカラズ」とか「朝夕ノ打坐怠ルベカラズ」と共に書いてあるのです。
 クリントン大統領が、ホワイトハウスで若い女性との不謹慎な「不適切な行為」がなかなか止められなかったりしますね。それで大統領失格だって声も多いようです。それに比べれば、若き哲学者が駄菓子の誘惑に弱かったって、それが彼の哲学を駄目にするということはないでしょうが、本人はそういう卑しい心では、とてもピュア・イクスペリエンスの立場を貫くのは難しいと悩んでいたのです。
 エエー?どうして駄菓子を食べたら「純粋経験」の立場に悖るのかって?だから純粋経験は実在なんです。それは根源的な意志による意識の統一なのです。そういう働きは、心身の調和がうまくとれている必要があります。食べすぎの状態では、腹が重くなったり、下痢になったりしますね。体調が悪くなっては、ありのままの実在を捉えるのは難しくなります。それに利己的な欲求や感情に左右されて、心がその事にとらわれていると、純粋経験なんか追求する気持ちも失せてしまいます。朱子学では「居敬窮理(身を慎んで理を窮める)」といって、情欲を抑制することによって理を究めることができるといいます。 駄菓子を食べたり、友人の家を訪問したり、そんな小さなことにいちいちめくじらを立てても仕方ないんで、そんなことは気にしない方が、ありのままの自分が保てるので、禅のさとりにもいいし、純粋経験の立場にもいいのではという反論もあるでしょう。でも気にし過ぎるのも駄目なら、無頓着過ぎるのも駄目なのです。明らかに自分の嗜好などにとらわれ過ぎるのは、自己のあるべき姿から外れて太りすぎや、自律神経失調症になり精神の安定を欠くことになりますから、ピュア・イクスペリエンスから外れます。それにしても哲学の権化みたいな西田幾多郎が、饅頭の誘惑を絶つためにも座禅をしていたという人間味溢れるエピソードは新鮮な驚きがありますね。西田が身近に感じられます。

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