悪戦苦闘のドッキュメント

 自覚が実在であるという自覚の立場の根底には、自覚を成り立たせる意志の立場があるわけです。西田は『自覚に於ける直観と反省』で意識の分裂とその克服の根拠を求めていましたが、それは悪戦苦闘のドッキュメントになってしまいました。彼は自覚の立場にたって「意味即実在」を論じようとしましたが、意識作用の起源が明確でないと、意味の世界から実在の世界に移ることができないことに気づきました。
 西田は意識の起源を、「それ自身に無限なる理念が己自身を限定するのが意識作用」だと予想して論じていました。でもこの考えだと無意識は意識の一限定だとか、一直線は無限級数の一限定だとかとは説けても、プラトンのイデア(観念としての一般者)がどうして現実になるのかはすっきりとは説けません。そこで西田は、これを経験論として展開するのです。つまり精神現象と物体現象が具体的経験の相関的な両方面だという議論をたてます。その統一作用面(ノエシス)が主観で被統一的対象面(ノエマ)が客観とみなされているけれど、両者は表裏一体なので、真の実在は意識経験の流れとしての「連続そのもの」だという議論です。
 「連続そのもの」という表現はベルクソンの「純粋持続」の影響でしょう。プラトンのイデア論で考えますと、円のイデア「定点から等距離の点の集合」は、具体的な円を構成する作用であり、個々の円はその対象的な現れであることになります。その場合はイデアはノエシスとしては内在的に捉えられていますね。観念としての円がいくらあっても、現実の円は描かれないと思われるかもしれませんが、西田の議論は生命の流れとして、あくまで生きた意識としてイデアもその現れとしての現実も存在するのですから、ノエシスとしての円のイデアとノエマとしての現実の円は表裏一体の実在なのです。
 連続が実在だというのはどうしてでしょう。このような円の意識経験はまた繰り返されて連続するわけです。そして繰り返されたその時の経験は常に「永遠の今」の経験です。それは直接的な経験ですね。その意味で連続は実在だと言えます。「永遠の今」は西田哲学理解の上で重要なキーワードになりますから、楽しみにしておいてください。
 ところで我々の直線の意識は、思惟対象である無限なる連続的直線の自己限定であり、一般者が己自身を限定する自覚的体系だという議論ですが、どうしても思惟対象としての直線それ自体が、何故自己自身を限定するのか、その内的必然性が見出せなかったのです。そこで西田は、対象を構成する意識の作用(ノエシス)が、対象の意識に作用の体験を含ませるとしたのです。そうすれば思惟対象自体が、ノエシスとして働き、自己限定するということになります。
 そんなこと言われてもピンとこないな、というのが正直な感想でしょう。だって思惟の対象が自分で思惟すると言うのですから、書いてある直線が勝手に踊りだすみたいなイメージが起きてしまうでしょう。西田自身がその内的必然性が見出せずに悩んでいたわけです。思惟対象もノエマ的に事物化して捉えてしまいますと、対象自身が考えることになるわけです。まるで『資本論』の商品物神の見本として机が急に踊りだすようなイメージで倒錯的に写ります。連続的直線もノエシスとしては「点の集合である線の一種で、それに含まれる二点間が常に最短距離になっている。」という思惟なのです。ですから我々が直線を思惟するときは、この一般的な定義を実現する形にしなければなりません。違う形にすると間違いなわけです。そして思惟を更に展開する場合は、幾何学的な体系がノエシスとして作用するのです。一般者が思惟するように個別の数学的思惟も作用しなければならないわけで、「一般者が己自身を限定する自覚的体系」になるのです。
 もちろんこの事は事物についても言えます。例えば果実酒について考えてみましょう。果実が何らかの原因で融解し、そこに菌が作用して果実酒ができることは自然現象で起こります。その過程を忠実に再現することに成功して見事に果実酒ができますと、それは果実を潰して、これこれの状況においておけば発酵して果実酒ができるという自然の摂理がノエシスとして作用していて、それを人間が認識することですね。だから一般者の自己限定なのです。
 そこで実在は統一されたものとしては客観的対象であり、統一する作用を反省して主観として捉えられますが、要するにこうした主客合一の動的統一なのです。ですから真の主観とも真の客観とも呼ぶことが出来ます。ところでこの実在を統一する作用としての主観は、反省されて捉えられると、客観的対象になってしまいます。それでは本当の主観とは言えません。それで主観は反省できないのではないかという疑問が生じます。それで西田はこれを極限概念を使って解釈しようとしました。ところがそのためにかえって議論は紛糾してしまいます。
 結局、経験とその認識に関しては、認識を超越した意志の立場に立つ必要があるというのが、西田の立場です。といいますのは、西田は人格的存在を最も具体的な実在と見なします。それはノエシス面で捉えれば精神です。そのノエシス面を捨象すれば、意識の内容がノエマ化されて生物や物体になってしまいます。ですから生物や物体というのは抽象的で貧しい内容なのです。西田は目的論的に物体の目的は、有機的生命であり、有機的生命の目的は精神であると認めます。彼はコスモス全体を統一した実在として捉えていますから、過去は現在へと成長・発展してきたことになるからです。
 人格的精神的カテゴリーを捨象した時間・空間的な認識カテゴリーだけでは、過去の経験は繰り返せません。しかし今を生きる意志にとっては、常に今に想起され意味づけられ経験されます。未来も現在の可能性として生きています。それは過去・現在・未来を生きようとする人格的意志によって統一されているのです。

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