仏教の教えに「五蘊仮和合」というのがあります。「五蘊」の内容は「色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊」です。すべての事象は物質的・感覚的・イメージ的・実践的・教養的(イデア的)なエレメント(要素)が仮に和合して現れているということです。これらはどれもスポットライトのようなものでして、この五つのスポットライトのどの一つが欠けても、事象は成立しないのです。この五つのスポットライトがちょうど一つに焦点を結んだ刹那に、一つの事象が姿を現しますが、次の刹那にはどれか一つでも焦点からずれてしまいますと、何も存在しないわけです。この「五蘊仮和合」の刹那は、宇宙的な規模で考えますとほんの瞬きの間なのですが、その事象に即して考えますと、人間の一生なら数十年に当たります。山本周五郎の好きな言葉に、「50年前、50年後」という言葉がありました。大部分の人は50年前、50年後は存在していないのです。宇宙の悠久の時間からみれば、存在していない時が常の姿で存在している時は、あくまで縁起でして、五蘊仮和合の仮の姿にすぎません。それを何かしっかりした実体によって自分で存在している「自性」を持ったものだと考えてはならないというのです。
それではすべての事象が「五蘊仮和合」だとしても、「五蘊」自体は不滅の実体ではないかという期待を抱いてしまいますね。そういう誤解があったので、五蘊も含め「一切皆空」だとしたのがナーガールジュナ(龍樹)です。物質とそれを刺激して感受する感覚の区別は、絶対的ではないというのです。同様にそれらについてのイメージを持つことも、それら自体と区別できるわけではありません。実践的にある対象を欲しがったり、利用したりする活動は、それらの事象についての経験ですから、経験と事象は純粋経験や自覚の立場からは絶対的には区別できないのです。もちろん事象とそれについての概念的認識も純粋経験や自覚の立場からは絶対的には区別すべきではありません。
「一切皆空」だとしたら、一切の生命の現れとしての意識現象はどこからくるのでしょう。また何によって生み出されるのでしょう。西田はそこに「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我有り)」的発想を持ち込みます。意識がある以上、意識作用が存在することになります。それを西田は意識を意識として明瞭にする意識と考えるのです。つまり意識自体の統一作用です。これを西田は「意志」と名付け、そのノエマ化したものを「自我」とみなしたわけです。意識の根源的な統一作用である意志によって、意識は自己を意識としてつまり、自己自身の姿として写すわけです。これが西田の自覚ですが、自覚を西田はゼルブスト・ベブスザインつまり自己意識とドイツ語で表しているのです。
意識の根底にある意志は自己を見出し、創造しようとする意志です。今を生きようとする意志なんです。それはまた自由な意志です。我々は物事を客観的に認識して、それに基づいて行動するという意味では、機械的で不自由に見えますが、それは意志面を捨象しているからそう感じるのです。意識の統一が行われるのは、生きようとする意志に基づいています。動植物を分類し、生活用品や生産用具、原材料を区別し、さまざまな社会組織に応じてその慣習に従うのも、生きようとする意志が働いているからです。自らの意志に基づいて意識を統一し、行動を決定しているわけです。もし自ら生きようとする自由の方向に意識統一ができないなら、世界に適応できなくなってしまいます。
また意志は現実がいかに自己の意志に基づく行動を束縛するように現れても、そうした現実を否定したり、それを変革しようとするように意識できる自由な意志なのです。現実は意志の決定の材料を提供しますが、最後に決定を下す自由は意志の側にあります。それはいかようにも決定しうる絶対自由意志なのです。意志は必ずしも物質の世界にのみ拘泥することなく、精神の自由の世界を目指すこともできます。自由に空想の羽を広げて理想を夢見ることもできるのです。
西田は、個人の意志を一般者の意志の現れと見なします。世界は各個人の意識統一によって、各個人の前に姿を現します。世界はその意味で無数の多として現れますが、どれも一般者の意志の自己限定としては、一つの世界に過ぎません。ですから各個人の意志は、同時に一般者の意志でもあるのですが、そのことに気づかないと、各個人の意志は世界の根源的統一の働きを自覚できないのです。絶対者の意志との合一を自覚しますと、世界が自己意識の中に写されて、自己の中に世界としての自己を自覚できるようになり、一般者の世界形成が、自己による自由な自己形成でもあるということを覚るのです。
西田の絶対自由意志論は観念論の徹底という様相を示しますが、元々純粋経験論の立場から言っても、主観と客観、精神と物質、個別と普遍の対立が克服されているのですから、個人の意識が絶対者の意識でもあるという神秘主義的な立場と通じることになったのです。もちろん個人の意識は、主観的な制約の中で一般者の意識とはずれてしまいます。とはいえ、個人の意識も自然や社会の中で社会実践によって試され修正されていますから、一般者の意識と合一した時に自由を感じるという面を持つのです。