日本の臨済宗の開祖は栄西ですが、栄西は宋に留学して臨済宗を学んできたわけです。ですから栄西は臨済宗の紹介者、輸入者であって、本当の開祖ではないのです。唐末に活躍した臨済義玄(?〜866)こそ『臨済録』を遺した臨済宗の開祖なのです。梅原はまず臨済を語るに当たって、いつも彼の傍らにいてカラカラ笑っていた狂僧普化との関わりを紹介しています。カラカラ笑っていると思えば、踊りだしたり、大声で泣きわめいたり、まったく気分が定まらないのです。
普化と共に施主の家へ食事に行く途中、臨済はこう問いかけました。「一本の毛が大海を呑み、一粒の芥子が須弥山を納めるとは、不思議な神通力か、それとも当たり前のことか?」この問いで頭が一杯だったからでしょうか、普化はいきなり食卓を蹴っ飛ばしてしまったのです。この問いは春秋戦国時代からの問いでして、「万物一馬(万物が一頭の馬の中に含まれている)」論と呼ばれていました。もっと極端に言えば「毛の先に天地がある」ということです。物事の大小の差別を相対化した老荘思想では「万物斉同(万物は皆等しくて同じようなものである)」論の一種としてよく言われることだったのです。
この難問を抱えたまま、呑気にいつものように食事などしていられません。日常性を保ったまま、この難問を解ける筈はないわけです。普化にすれば食卓を蹴っ飛ばして当然なんです。でも臨済にすれば施主に対する配慮もあり、「荒っぽい」といって注意するしかありません。しかし普化にすれば仏法に荒っぽいも、細かいもないのです。だってこんな凄い難問が解けたら、たとえそのせいで衰弱して死んだとしても、本望かもしれませんね。仏法はそれだけ命懸けでするものなのです。
普化は町の中で鈴を鳴らして叫んでいました。「賢い頭が来れば、賢い頭を打ち、愚かな頭が来れば愚かな頭を打つ。四方八面が来れば、旋風のように打ち、虚空(大きな空)がくれば、脱穀棒で打ってやる。」普化はすべての世俗的な日常性を否定し、自分にとって外的な物からの制約を全て拒絶してしまったのです。この精神は臨済にも強い影響を与えました。
「道流よ、お前は法を理解したいと欲するなら、ただ人惑(他人に自由を妨げられるコト)を受けてはならない。裏に向かったり、外に向かっていって人惑に逢えば、そしたら殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺せ。羅漢に逢えば羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱をすることが出来る。物と拘わらず、透脱自在である。」
念の為に言っておきますが、これは決して悟りの邪魔になるものは誰でも殺してよいという、宗教絶対主義の教え、宗派の為の殺人肯定の教えではありません。人間は様々な人々や環境の影響を受けて育ちますから、自分が接し、影響を受けた人や教えにより、いろんな固定観念が固着してしまっています。でも本当の仏法の理解の為には、外からきたものに頼ってはいけないんです。完全に内発的で自由な展開でないと悟りには到達できません。精神分析学では精神的自立の為には「精神的親殺し」が必要だと言いますね、あの親殺しと共通しています。貴の花は、本当に強くなる為といって、親殺し、兄殺しをしています。でも謎の整体師富田氏のマインドコントロールに嵌まっていますから、やはり精神的依存からは抜け出せていないのです。これではまだ彼のパワーは全開しません。
柳田謙十郎は40代で西田哲学に傾倒し、「ほとんど全生命をあげて先生の思想と人格とに心酔して来」(柳田謙十郎『自叙伝』「我が思想の遍歴」より)ましたが、敗戦後の思想的総括でマルクス主義に転向しました。そしてそれ以後はまた忠実なマルクス・エンゲルス・レーニンの信奉者に成ってしまったのです。柳田も自分の依って立つ理論的根拠を権威ある学説や、宗派に求めることしかできなかったのです。
もちろん真理を何の教養もなしに、ただ内発的にだけ展開できるわけはありません。偉大な知の先駆者の業績から深く学びとる必要はあります。ただ闇雲に否定すればよいのではないのです。しかし先駆者の業績、師の考えに縛られていれば、自由な理論展開ができなくなってしまうのです。そうすると創造的な理論活動は枯渇してしまいます。真に自由な主体による、つまり自らに由る理論展開に徹しなければならないのです。それは世界を自己自身として意識する自覚であり、絶対自由意志なのです。