2-2-1前置きとして

第二節 〔批判仏教の場所仏教批判〕批判

前置きとして

 前回の「自覚から絶対自由意志」についての説明は、入門講座としてはどうもこなれが悪かったようで申し訳ありません。それからもっと現代の問題意識との関連が分かるようにして欲しいという注文もきています。そうでないと西田哲学の面白みが伝わらないというわけです。入門講座はどうしても基礎的な理解が中心になりますから、現代の問題意識との関連が直接的には伝わりにくいものです。とはいえ、講座全体としては西田哲学の現代的意義と限界については明確にしていくつもりです。しかし当面は、近代西洋哲学に対して西田が対抗的に打ち出した、「純粋経験」「場所と絶対無」「行為的直観」「絶対矛盾的自己同一」等の論理を理解し、東西思想の統合の可能性を西田と共に模索していく事に、西暦2000年代を迎える現代の思想的課題を見いだしておいてください。
 また筆者やすいゆたかの問題意識との関連で言いますと、西田の「物となって考える」という構えが、事物の側にも意識を形成する契機を認める「物が考える」という筆者の捉え方に通じるところがあるのです。ですから西田哲学を学ぶのは、近代の認識論の主観主義的偏向を克服する上で大いに役に立つのです。それは人間観の分野では、人間を身体的な枠内で捉えるのではなく、むしろ社会的な事物の中に人間性を求めていくことでも通じるところがあります。その意味で私のライフテーマである「人間観の転換」を深める為にも、西田哲学には大いに学べきところがあるわけです。
 ところで西田の思索は観念論の徹底という形で進行していくことがあります。西田の思索を解説していますと、やすいもついに観念論の軍門に下ったかとの誤解を受けそうですね。『『ソフィーの世界』の世界』(青木書店刊)や「弁証法的唯物論は終わったか?」(『月刊状況と主体』1996年1月号)でも論じましたが、巨大な哲学の樹の中で弁証法や唯物論が正しく位置づけられなければならないように、西田哲学もその有効範囲の限界づけをした上で、大いに活用すべきなのです。世界をすべて意識経験として捉える「純粋経験論」も、物事や世界を自らの活きた体験として捉えるという意味では大変素晴らしい捉え方なのです、たとえ観念論の徹底であってもね。もちろん唯物論的な見方や弁証法的な捉え方も、歴史的社会的な生活実践や政治経済的な社会分析、自然の科学的な分析などにおいて大切な観点です。だから批判仏教が十八番にしている二者択一じゃいけないんです。もっとも二者択一的に「唯物論か観念論か」ということで、論敵を観念論に分類することが、相手の誤謬の証明であるかのような議論の仕方から、我々もなかなか抜けきれませんでしたが。

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