仏性とは何か?

 では一体「仏性」とは何でしょうか。釈迦を筆頭とする諸仏陀は無我の真理を覚り、ニルバーナ(涅槃)の境地に達したと称しているわけです。そこでは世界は生きとし生ける者が活き活きと純粋経験されるのですから、仏陀にとっては咲く花が、飛ぶ鳥が、流れる川が、戯れる子等が、そのままで仏陀自身の経験なのです。それこそ「一切衆生悉有仏性」です。花や鳥や川や子を他の経験から切り離して、主語化して捉え、事物として認識すれば、それぞれが独立した自性を持つもののように見えますが、元々大いなる命の流れの中で縁起によって生じたものに過ぎません。「諸行無常・諸法無我」なのです。諸々の事象は恒常性を持たず、生成消滅しますし、無常の法の現れでしかない諸々の物は、不変不滅の実体を持っていないのです。結局、無我であることによって、諸事物は仏性を有つのだということです。
 仏性というのは決して不変不滅の実体ではないのです。逆に不変不滅の実体を有たないということが、仏性を有つということなのです。もちろん批判仏教は、それでも「仏性」を有つこと自体は不変不滅という理屈に変わりないし、結局は「無常」自体が不変不滅の実体とされているではないかと反論するでしょう。そして諸事物を自己の意識経験に還元している仏陀自身が自らを「大いなる命の流れ」として捉えていることになり、この「大いなる命の流れ」自体がまさしく不変不滅の実体ではないかと批判されるでしょう。
 では仏教は「大いなる命の流れ」も含め、あらゆる意味での原理を否定する思想なのでしょうか。ゴータマ王子は「四門出遊」により、この世界が生苦・病苦・老苦・死苦など生死の苦しみに満ちていることに気づき、この苦の世界から逃れて、ニルバーナに到達しようとしているバラモンに出会い、出家を決意します。そして苦行や快楽などの両極端を避け、瞑想による解脱という中道を貫いて、目覚めた人(仏陀)になりました。
 そこで覚ったのが「四諦」です。つまり苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つの真理です。苦諦とは一切皆苦の真理です。集諦とは苦の原因についての真理です。苦の原因は、渇愛つまり欲しがり執着することです。それは我への執着が原因で、結局、無我の真理への無知つまり無明からくるのです。そして滅諦とは無明を滅ぼして無我の真理を自覚すれば涅槃に到達できるという真理なのです。最後に道諦とは涅槃に至る修行の道は、八正道だという真理です。
 ついでに八正道ですが、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つの修行です。簡単に言えば、中道・四諦を常に念頭において見たり、考えたり、語ったり、働いたり、生活したりしなさいということです。そしてそういう真理の道で努力を重ね、精神を統一し、思いを定めれば無我の真理を体得して生きることができるのです。
 少なくとも中道・四諦・八正道や四法印を踏まえる限り、個人や個物の自性を否定する無我の真理により、事物間の相互依存性に基づく縁起の思想を窮め、自他の区別や諸事物との区別への固執を捨て、我執を滅ぼして、純粋経験に生きることが求められていることは確かですが、世界を「大いなる命」として捉えることが間違いだという結論にはならないと思われます。諸個物の無常の生命の燃焼が織りなしている、食物連鎖を含む生死の循環が「大いなる命」なのです。
 縁起の思想から慈悲の立場が出てくるのも、生きとし生ける者を自分の命として感じるからです。そこに生命的統一というのがあります。個々の生命を越えて、「大いなる命」が感じられてはじめて、我執が無くなり、無我の真理を覚ることができるのです。このような生命的な統一を宿していることが仏性なのです。これを国家が有機体思想として利用し、個我の独立を否定して、国家目的の為に人民を犠牲にしようとすることもあります。政治的な権利意識の問題で悪用される危険があるからといって、無我の真理が誤っていると決めつけるのは短絡的です。

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