場所としての仏性

 「大いなる命」を織りなす我々の生命活動の根源が仏性だとしたら、その具体的な現れが意識経験です。この意識経験が意識でしかないという面に留意して、意識現象として捉えるのがフッサールの現象学でした。この意識が現象する場所が「意識の野」と呼ばれます。我々の生命は、生物学的に理解されるのとは別に、「意識の野」として機能しています。だから西田の「場所の論理」では、それは意識が現れ出る「場所」なわけです。そして意識経験をノエシス(意識の作用面)とノエマ(意識の対象面)に分け、ノエシスを捨象して、ノエマだけを取り出しますと、諸事物の関係として世界が展開しているのが意識されます。
 諸事物を有としますと、そこでは「有の場所」が空間として意識されるわけです。時間も空間も感覚的な意識であり、実は人間の意識経験であるという面をもっているのですから、そこで展開される諸事物のドラマも我々の生命活動であるという面をもっています。こう捉えるのが「自覚(=自己意識)」の立場でしたね。ですから我々の生命は「有の場所」でもあるわけです。この「有の場所」に対して「意識の野」は「無の場所」と捉えられます。事物を有とし、意識を無とするのはサルトルの『存在と無』と共通しています。
 我々の意識経験は「意識の野」にただ無秩序に現れるわけではありません。それは生命活動の一環なんですから、生への意志や何億年もの生命の歴史的体験を通して方向づけられた無意識の傾向性や衝動によって規定されているわけです。そしてそういうものが「大いなる命」に参与しているわけで、「仏性」と言ってよいかもしれません。これは単に個体を維持させようとするだけでなく、大いなる生命の循環を維持しようと働くわけです。そして類の為に必要なら個を犠牲にしたり、自分を食べたり、分解したりする他の個体の為に自分の生を犠牲にしたりもするわけです。
 そういう仏性があって、その上で個々の生命活動が「意識の野」や「事物空間」として働き、そこに様々な意識が現れ、事物が運動し連関します。ですから「意識の野」は「無の場所」でしたが、その場合の無は事物としては無であっても、意識としては有なので、相対的な無でしかありませんでした。これに対して仏性の場合は、意識としても無なのです。意識の底を破った無として、これを「絶対無の場所」と西田は呼んでいます。仏性を意識としても無とするのは、仏性が絶対自由意志として、諸事物や諸観念に囚われない、意志であることを意味します。いや誤解ないように言い直しますと、諸事物や諸観念などどうでもいいということではありません。究極のところでは諸事物や諸観念がどうであれ、仏性としての絶対自由意志が貫かれるということです。
 ところでこの諸々の意識や諸々の事物は、すべて生命的な根源としての「絶対無の場所」において生じているわけですが、その場合、批判仏教が指摘するように、この「絶対無の場所」が意識や事物の本質に当たると言えるでしょうか。といいますのが、仏教で否定している我(アートマン)とは、事物の不変不滅の本体ことでしたね、意識や事物が場所において生じるとしたら、場所は事物の本体だということになるのかという問題です。
 この問題は西田の「場所の論理」が、後で詳しく展開しますが、述語論理あるいは繋辞論理として展開されますので、批判仏教の指摘するような「基体(本質)ー現象」関係では捉えられないのです。それはともかく、事物は仏教では色蘊(物質的エレメント)・受蘊(感覚的エレメント)・想蘊(イメージ的エレメント)・行蘊(実践的エレメント)・識蘊(イデア的エレメント)の五蘊の仮和合として捉えられているわけですから、意識経験に還元されてしまって、それ自身で存在するという自性を持たないわけです。つまり事物に内在的な本質はないということです。
 批判仏教は、「仏性」や「場所」は現象としての事物の「基体」や「本質」に当たるのだと言い張っているのです。たしかに意識の底を破ったものとしては、それらは基体と言えるでしょうが、具体的な事物や意識が何であるかの規定性には一切関わりがないのですから、本質とは言えません。基体と言えても事物に内在的な自性の本質ではありませんから、無我の真理に抵触しないのです。こう言えば分かりやすいでしょう。「事物は我を持たないという真理を持っている」ということは、「事物が無我という我を持つことになる」とは言えないということです。
 とはいえ仏性も場所も根源的な生命として捉え返せば、全体概念です。ですから具体的な事物や意識の規定と一切係わりない筈の絶対無が、どうして具体的な事物や意識として自己を限定できるのかという問題に苦闘した挙げ句、西田は「絶対矛盾的自己同一」という概念にたどり着くことになるのです。

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