「場所」という言葉は元々ギリシア語で、「トポス」と言います。トポスとは、そこに聖なるものが現れ出る所なのです。環状列石のような聖なる石だとか、聖なる岩、聖山や聖なる森あるいは聖なる木などにも神が降り立つわけです。鳥居というのは元来が、霊鳥が木にとまっている姿を示していました。ですから今では神域の入口を示す標識になっていますが、鳥居こそ神が降り立つ場所としての御神体だったのです。フェティシズム(物神信仰)では、元々そういう聖なる事物自体が神だったのですが、アニミズムでは物自体は神ではなく、神が降り立つ舞台であったり、神を宿す神の身体になったりしたのです。
プラトンの『ティマイオス』では、造形者としての理性神であるデーミーウールゴスが永遠の原型であるイデアを眺めながら、存在者の質料もしくは場(コーラー)を材料に世界を形成するとします。このコーラーはそれ自体としては何の形も持ちませんから、感覚に捉えられないのです。でもそれが存在しなければイデアだけで、物体としての実在性がありません。それに空虚の存在をプラトンは認めていませんから、どうしても質料としてのコーラーは前提だったのです。それが「場所」の意味も持ったのは、コーラーがそれ自体としては全く感覚に訴えるものがなかったので、単なる空間的な場所的存在に見えたからです。
アリストテレスの『自然学』などの「場所(トポス)」というのは、元素にはそれぞれそれが存在するに相応しい「場所(トポス)」があるとされます。一番高い所には「火」が、その下は「空気」が、そして土の上には「水」が、その下には「土」が相応しいわけです。上に行く程、よく運動するので希薄で温度が高いのです。下に行く程、濃厚で温度が低いとされます。上の元素は下の元素を温めて上昇させようとし、下の元素は上の元素を冷まして下降させようとします。こうして各元素は混ざり合い、複雑な化合物ができるわけです。そして本来火の場所に水がきますと、それは希薄になり、温められて火に成りやすいのです。本来空気の場所に来た火は冷やされ、濃厚になって空気に変化しやすいのです。こうしてそれぞれの場所に相応しい元素に他の元素は変化していきますから、上から火・空気・水・土の場所そのものは安定しているのです。
西田はギリシア哲学のコーラーやトポスを参考にしていますが、西田自身の「場所」はまた別だとしています。西田にとっての実在は、ギリシア哲学の実在とは違いますから、実在が現れる「場所」の概念も当然異なるわけです。とはいえ実在の中身とそれが現れる場所を区別する発想は引き継いでいると言えるでしょう。例えばスクリーンと映画で「場所」について考えてみましょう。経験としての各場面はスクリーンがあるから見えるわけです。むしろ映画を観るということは、スクリーンにおいて観ているのです。スクリーンを観ることが映画を観ることでもあるわけです。でもスクリーン自体は無であって、映画の内容とは無関係です。
我々の人生は経験の連続です。西田は純粋経験を唯一実在として全てを展開しました。それが『善の研究』でした。我々は自分自身を純粋経験それ自体と言ってもいいわけですが、それが統一的な意識の流れとして存在するのは、結局「自覚」があり、「絶対自由意志」が前提として働いているからでしたね。それをノエマ的に捉えれば「人格」です。ですからある意味で、それぞれの経験の連続としての人生は個性的で、人それぞれです。人それぞれが意識経験の「場所」として存在しているわけです。ただしこの「場所」はカントのような純粋理性としての主観ではありません。主観・客観の未分化な純粋経験が現れる「場所」なのですから。それは個々人の経験の展開であると同時に世界の展開でもあるような、そういう事態が繰り広げられる舞台なのです。
個々人が経験することが、そのままその人にとっての世界の展開なのです。世界がその人の経験として現れているわけです。それは個人の意識としての世界であると言えます。個人を越えたものが、個人において意識として現れるのです。個人は世界が現れ出る場所になっています。でも西田哲学では、個人の人格や意志が先ずあって、それを場所にして意識経験がそこに現れているように捉えてはいけません。意志は意識自身の統一する働きですし、自我はそれをノエマ的に捉え返したものです。つまり実在としての意識自身が自らの働きを通して、それが於いてある場所を形成しているわけです。