形なきものの形を見、声なきものの声を聞く

 「形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云ふまでもないが、幾千年来我等の祖先を孚み来つた東洋文化の根底には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云つた様なものが潜んで居るのではなからうか。我々の心は此の如きものを求めて已まない、私はかかる要求に哲学的根拠を与えてみたいと思ふのである。」(全集第4巻6頁)
 西田哲学が本格的に成立したとされる論文「場所」を収めた『働くものから見るものへ』(1927<昭和2>年刊)の「序」の最後の段落です。ベルサイユ宮殿からエッフェル塔に至る近代フランスの絢爛たる形の文化は、明治時代の日本人にとっては大変な憧れだったでしょう。西田は、自分自身が肋膜を患っていましたし、妻や子供達が次々病気で寝込んで、とても欧州留学などできませんでした。彼は結局一度も海外旅行をしなかったのです。
 日本の木造建築は、自然の中に融合していて、庭園でも風景に溶け込むように作られています。自然を切り開きて、人工的な造形で空間を支配するということをなるべく避けているようです。和辻哲郎は『風土』で地理的条件から文化を特色付けました。西欧は、森林を切り開き、田畑や牧場をつくりました。そこから自然を対象的に捉え、造り変えて支配しようとする文化になったのです。それに対して温暖湿潤な日本では、自然の恵みを享受して、自然と融合しようとする文化が発達したのです。西洋の文化を造形的な有の文化とすれば、東洋の文化は見えない無の文化にあたるということでしょう。
 ですから、自然を客観的に捉え返し、その形や色や音を分析総合して科学的な認識を発達させるという面では、確かに西欧に先を越されました。でも、自然と融合して始めて見える形や声もあるのです。それは命の形や声と言ったらよいのでしょうか。とは言いましても、対象的な認識ではありませんから、動植物の生物学的な姿形や声という意味ではありません。生きることの苦悩や喜び、或いは共に生きることからくる苦悩や喜びです。それが様々な姿をとり、声になっているのです。
 哲学する動機をアリストテレスは「驚き」に求めました。でも西田は敢えて「哲学の動機は『驚き』ではなくして、深い人生の悲哀でなければならない」としています。田辺元は西田家の苦難を「旧約のヨブの一家のようだ」と表現しました。『旧約聖書』の「ヨブ記」には、神がサタンに信仰が深く善良なヨブを自慢したので、サタンが妬みから神の許可を得て、ヨブの家族を病気や死に追いやったり、様々な生活上の苦難をこれでもか、これでもかと与えて、それでも信仰が揺るがず、善良であり続けることができるかという試練に遇わせた話が記されています。ヨブは、そうした神の仕打ちに腹を据えかねて、とうとう神に抗議します。でも神は被造物である人間が、造物主である神に抗議するのは身の程知らずだと叱ります。それでもヨブは義を貫きましたから、最後には神の祝福が与えられます。
 人生が悲哀と苦難の連続でしかないとしたら、それでも人生には生きる意味があるのかという問いが、非常に切実になります。幾多郎は「かくてのみ生くべきものかこれの世に五年こなた安き日もなし」と歌いました。西田は人生の万感の思いをよく歌にしました。それらは大変素朴で、胸に迫ります。悲哀からくる人生への問い、それが存在への深い問いになり、西田哲学が形成されたのです。一九一九年九月に妻寿美は脳卒中で倒れ、それから約五年半寝たきりで死んでしまいます。その間に長男謙が、腹膜炎で病死しました。「すこやかに二十三まで過し来て夢の如くに消え失せし彼」です。この事を病床の妻に告げなければならない辛さは、とてもボキャ貧の私には言い表せません。
 そして家の掃除も行き届かなくなり、衛生状態まで悪くなって、娘たちも病気になります。静子(3女)が肺結核、友子(4女)と梅子(6女)がチフスに罹ったのです。「妻も病み子等亦病みて我宿は夏草のみぞ生い繁りぬる」という状態です。まさしく「運命の鉄の鎖につながれて打ちのめされて立つ術もなし」というところまで追い詰められたのです。こういう深い孤独と悲哀の中では哲学どころではないと思われかもしれませんが、その中でこそ彼は心の深い底にたどり着いたのです。「我が心深き底あり、喜も憂の波もとどかじと思ふ」とその心境を表現しています。この底こそ「絶対無の場所」に通じているのです。
 意識経験の底にそれを統一するものとして意志を見いだし、それを絶対自由意志として働くものとしての意識を捉え返していたのですが、人生の悲哀を通して自らの意識経験を受け止める「場所」として、世界が現れる意識面を捉え返す姿勢になったのです。人生の悲哀をなめつくしますと、世界が意志次第でなんとか変革できたり獲得できたりするものだというよりも前に、自らの意志を裏切るように展開する自分の人生を、先ずは自己自身の命の場所として受け入れるしかなくなるのです。それでもなお、自分自身の人格に忠実に生きようと西田はしたのです。
 西田のように「人生の悲哀」から「場所」概念を引き出しますと、「場所」は個人的で主観的な心のあり方だけを意味するように誤解されるかもしれませんね。「人生の悲哀」は、それぞれの個性的な人格によって様々な姿をとりますが、それを「人生の悲哀」だと一般化して受け止めている限り、一般者である「人生の悲哀」の個性的な現れなのです。西田がよく使う言葉で言いますと、「一般者の自己限定」なのです。
 「場所」は確かに個人の意識経験を離れて存在するわけではありません。でも何度も言いますが、西田はラジカル・エンピリシズム(根本的経験論)を貫いています。意志が意識経験としての世界の統一面を表していたのに対して、場所は意識経験の世界の包容面を表していると言えるでしょう。そしてこの場所は、一般者が一つであるという意味では全宇宙を包容するものですが、一般者が多くのものに現れるという意味では、場所は個々人の意識経験を包容する形で存在しているのです。
 これはオウム真理教事件で活躍したジャーナリストの下里正樹(現代思想研究会会員)に教わったのですが、「場所」概念を西田の国家意識や歴史意識から捉え返すのも有効かもしれません。論文「場所」が発表された1926(大正15)年当時は、中国大陸での利権に深くはまり込む一方、欧米帝国主義諸国との協調も追求せざるを得なかった大日本帝国が、自らの置かれた歴史学的、地政学的「場所」を見極めることを迫られていたという背景もあったでしょう。

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