主語の論理

 意識経験を思惟によって表現する場合、それは主語・述語構造で表現されます。意識経験は対象面でノエマ的に捉えますと、運動する諸事物の諸関係として展開しています。このような物理的な空間としての場所を、西田は「有の場所」と名づけました。そこでは諸事物は主語として意識に現れ、述語づけられて認識されるのです。そこでは意識は、主語として実在する諸事物の反映として受け止められます。「主語Aは述語aである」わけです。この主語Aは、また述語bでもあり、述語cでもあるわけです。こうして主語Aについての認識は広がり深まって、事物Aに対していかなる対応をするべきかの知恵が発達するのです。主語Aは事物であるとは限りません。ある事件であってもいいし、抽象的な観念である場合もあります。ともかく事物や事件や観念に対する認識は、主語・述語構造にで表現されることによって、無限に深まっていく可能性をもつのです。
 これが言語の本質です。だから言語の発生が、他の動物一般と人間をはっきりと区切ることになったのです。言語の使用によって、人間は諸事物に対する認識を無限に深め、その認識を利用して文明を生み出すことができたわけです。このように主語Aについて、述語{a・b・c〜}を無限に付加していく論理の展開で、事物世界の認識を深めていくのが、アリストテレス的な「主語の論理」です。
 アリストテレスは、プラトンのようなイデアと現実の二元論を批判し、イデアは個物のエイドス(形相)に過ぎないとしました。あくまで個物が実体であり、個物がエイドス(形相)とヒュレー(質料)という二つの契機から成り立っているとしたのです。ヒュレーなしにエイドスは無いのに、エイドスだけで実在すると考えたのが、プラトンのイデア論の誤りだということです。
 ところで個物Aは、主語となり、様々に述語づけられますが、主語は特殊であり、述語はその普遍です。判断とは主語に述語を内属させることなのです。個物Aを規定し尽くそうと思いますと、たくさんの普遍を述語づけて、主語に内属させる必要があります。それでもまだ何か規定できるかもしれません。人間は神ではないのですから、どんなちっぽけに見える事物でも、知り尽くすということは決して出来ない相談です。それでアリストテレスは、個物を規定を内属させる基体と捉えます。そして個物は「主語となって、述語にならないもの」としました。唯一つしかない個物には、普遍性がないのですから、ただ自己自身の述語になれるだけで、決して他の物の述語になれないからです。

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