「有の場所」では、諸事物の運動や関係や変化が捉えられました。そこでは実在はあたかも個物であるかに捉えられ、意識はその反映に過ぎないと思い込まれがちです。それは意識経験が常にノエマ(対象面)化して認識されるからです。そうしますと実在としての事物と意識経験としての事物は、あたかも別物であるかのようになり、それでは本当の実在を体験できないということになってしまいます。
西田は、元々、事物自体が意識経験を対象的に捉え返したものであることを踏まえて、意識経験こそ唯一実在だという立場から出発しています。ですから意識経験が実在の反映でしかないという捉え方には納得できないのです。元々、個物Aは、述語である{a・b・c・d〜}という意識経験の集合として成立した観念です。Aを例えば「西田幾多郎」としますと、a1870(明治3)年生まれ、1945(昭和20)年没、b日本近代を代表する独創的哲学者、c代表作『善の研究』『働くものから見るものへ』『一般者の自覚的体系』『無の自覚的限定』『哲学の根本問題』『哲学論文集』『日本文化の問題』、d京都大学哲学教授、その他どんな家族や弟子がいて、どんな人生を送ったか、彼の趣味や家族・同僚・学生に対する接し方などいろんなエピソードから、西田幾多郎像が浮かび上がってきます。我々は西田に関する様々な資料に触れながら、諸々の述語の統一として西田という主語を構成しているわけです。
いったん主語Aという統一像ができますと、a・b・c・d〜はAに内属するものとして扱えます。そこでAの方が元々あった基体だと見なされて、「主語の論理」に成るのです。しかし「述語の論理」では、個物Aは{a・b・c・d〜}として結局述語的な意識経験に還元されます。ですから個物Aは、意識から独立した実在ではなく、{a・b・c・d〜}という意識集合であったことになります。そこで西田は個物Aの実在性を否定しているわけではないのです。むしろ個物Aの実在性は、Aに内属する意識{a・b・c・d〜}によって確かめられているのです。そのことによって個物Aは、意識によって包容されたわけです。
意識によって包容されるということは、「有の場所」から「意識の野」に移ったということです。物としての対象的な姿を「有」としますと、意識に還元されて対象性を喪失したので「無」となります。これは有に対する無ですから「対立的無」ですね。でも具体的な述語であるa・b・c・d〜はどれも明確な統一された意識として、対象的な存在であり、「有」であるのではないでしょうか?そういう疑問が湧きますね。例えば身長が一六〇センチメートルの人がいるとしますと、身長一六〇センチメートルというのは有に含まれる気がします。でも身長も、それ自体で有るわけではなく、個物の属性でしかないわけです。ですから個物の属性になってはじめて有を構成するのですから、属性それ自体は無に含まれるのです。京大教授という地位もそうですね、西田という個人の属性となって始めて有を構成するわけですから、京大教授それ自体は無だということになります。そういう意味で「有」や「無」を使うことには抵抗感がありますが、西田哲学入門講座ですから一応そう解釈できるのだと受け止めておいて下さい。
a・b・c・d〜は意識であって、述語であって主語にならないのですが、それが個物Aの諸属性だと分かったら、「aはAである」「bはAである」「cはAである」「dはAである」というように主語と述語が逆転します。そうなれば{a・b・c・d〜}はもう述語ではありませんから、述語面にはいないわけです。その上で改めて「Aは{a・b・c・d〜}である」という認識になるのです。このAは述語面を破った超越的述語面において生じています。対立的な無である意識の野を破った超越的述語面を、西田は「絶対無の場所」としました。そこにおいては意識は、自己自身を無にして、個物Aを自己自身として自己自身の中に写して直観しているわけです。個物Aが自己自身ですから、「Aは{a・b・c・d〜}である」という認識は、A自身の認識でもあるわけです。西田の「物となって見、物となって考える」というのは、こういう意味です。
この述語論理では、主観を無にすることで主観・客観の分裂を克服して、主観・客観が合一しています。そしてAという意識が意識自身を統一していますから、純粋経験についての論理になっています。それはまた物に即した物自身の論理展開になっていますから、極めて合理的な認識です。しかもその物が意識経験と乖離した、形而上学的な独断論によってではなく、あくまで経験を踏まえた、実際的な経験に即して展開されているのです。
述語論理と言いますと、主語なしで表記して、それだけで意味の通じる対話や文章の論理展開をすることだと誤解されるかもしれませんが、述語中心の論理展開ということに過ぎません。主観を無にすることで、事物に成って見たり、考えたりするということにも納得がいかない人が多いでしょうね。それは「事物が見たり、考えたりする」ということでもありますから、マルクスの『資本論』によりますと、「机が踊りだす」フェティシズム(物神崇拝)的な倒錯だということになります。